1949年(昭和24年)の「男の夜曲」で歌手活動を始める。これは、師匠の高田浩吉から「鶴田は歌が上手い」と聞いたポリドールに懇願されたことによるものであった。
しかし、本人はこのデビュー曲について「嫌々連れていかれたスタジオで、無理やりレコーディングさせられた曲」と後年語っている[20]。それが40年近い歌手人生のスタートであったが、それ以来彼は歌う場面であってもあくまで「俳優の鶴田浩二」として挨拶し、歌手が本職であるという態度は終生取らなかった。「歌手は本業ではない」という謙虚さゆえか、ハンドマイクで歌う際は持ち手をハンカチで包むようにして手の汗が付かないよう気遣いを見せた。上述にもあるように左手を左耳に添え、音程を確かめるように歌う姿とともに、「鶴田独自の歌唱スタイル」として広く知られることとなった。
1960年(昭和35年)ごろまでの歌手としての鶴田は、甘い歌声で恋愛を主とした映画主題歌などを歌うことが多かったが、「好きだった」ヒット後はそれほど大きなヒットに恵まれなかった。しかし1960年代半ばから任侠映画や戦争映画への出演が増えたのに伴い、任侠や中年男の悲哀、そして戦友への鎮魂歌(主に軍歌)を、渋みの加わった声で熱唱する新たな一面を見せるようになっていった。それを代表するのが「傷だらけの人生」、そして「同期の桜」である。また、こうしたオリジナル曲のほかに、鶴田は軍歌も多数歌っている。
また、戦前の流行歌のカバーのほか、フランク永井・和田弘とマヒナスターズ・石原裕次郎などのカバーもしており、生涯歌った曲は約200曲を数える。
2009年(平成21年)、実娘・鶴田さやかはCD「涙の宝石」内で、現在の編集技術を使って「赤と黒のブルース」「好きだった」の2曲で鶴田とデュエットしている。
シングル
初期
男の夜曲(1949年、ポリドール)藤田まさと作詞、舟尾勇雄作曲。歌手デビュー作品。
頬寄せて(1951年、日本コロムビア)藤田まさと作詞、万城目正作曲。美空ひばりとのデュエット曲。
ビクター時代
若人の誓い(1951年)佐伯孝夫作詞、加藤光男作曲。これ以後、鶴田はビクターで活動。
さすらいの舟唄(1952年)佐伯孝夫作詞、吉田正作曲。
彌太郎笠(1952年)佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲。映画『彌太郎笠』主題歌。
彌太郎旅唄(1952年)佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲。榎本美佐江とデュエット。
ハワイの夜(1952年)佐伯孝夫作詞、司潤吉作曲。映画「ハワイの夜」主題歌。
街のサンドイッチマン(1953年)宮川哲夫作詞、吉田正作曲。最初の大ヒット作。
赤と黒のブルース(1955年)宮川哲夫作詞、吉田正作曲。ムード歌謡黎明期を代表する一曲。
好きだった(1956年)宮川哲夫作詞、吉田正作曲。のちに和田弘とマヒナスターズがカバー。
幸福の星(1960年)村尾昭作詞、吉田正作曲。カップリングの「想い出にしないで」では、松尾和子とデュエット。
無情のブルース(1965年)木賊大次郎作詞、小西潤作曲。映画「関東流れ者」主題歌。
歌謡組曲「名もない男の詩」(1968年)以下の曲と鶴田の台詞によって構成される長編組曲。鶴田の半生を振り返ったもので、終戦後二十数年間の鶴田の心模様が投影されている。このうち、「いいじゃないか」(「センチメンタル・レイン」にカップリング)と、「リーサに逢いたい」(詞は若干異なる)「名もない男のブルース」とはそれぞれシングル化。なお、ここで「同期の桜(台詞)」とあるが、これはのちに発表される「同期の桜(台詞)」とは別のものである。
「名もない男の詩テーマ(序章)」吉田正作詞・作曲
「名もない男のブルース」宮川哲夫作詞、吉田正作曲
「同期の桜(台詞)」大村能章作曲
「二人の愛」吉田正作詞作曲
「いいじゃないか」井田誠一作詞、吉田正作曲
「貨物船(カーゴ)の男」吉田正作詞作曲
「リーサに逢いたい」宮川哲夫作詞、吉田正作曲
「名もない男のブルース」
「名もない男の詩テーマ(終章)」
同期の桜(台詞)(1970年)小野榮一作詞(西条八十原詞)、大村能章作曲。LP『あゝ軍歌』からのシングルカット。歌詞の使用権の問題により、鶴田作成で特攻隊員の遺書の形をとる「台詞」を「同期の桜」のメロディにのせて朗読。後年、彼は「台詞」のあとに「同期の桜」を歌うバージョンもレコーディングしている。「元特攻隊員・鶴田浩二」のイメージを定着させた。
戦友よ安らかに(1970年)小野榮一作詞、吉田正作曲。「同期の桜(台詞)」のカップリング曲。本人作詞で、戦友への鎮魂の思いが色濃く出ている作品。
傷だらけの人生(1971年)藤田まさと作詞、吉田正作曲。日本レコード大賞大衆賞受賞作。シングル売上で最大のヒット曲である。
男(1971年)藤田まさと作詞、吉田正作曲。映画「任侠列伝 男」主題歌。
望郷の町で/生きる阿久悠作詞、吉田正作曲。
日陰者(1972年)藤田まさと作詞、吉田正作曲。映画「日陰者」主題歌。
あゝ戦友(1975年)柴田よしかず作詞、豊田あつし作曲。カップリング曲は「特攻隊節」。
たんぽぽの花(1978年)作詞・作曲者不詳、曽我部博士補作。特攻隊員の愛唱歌だったという。
散る桜残る桜も散る桜(1979年)曽我部博士作詞、吉田正作曲。
想われ人は想い人/シンギング・ボトル(1981年)星野哲郎作詞、吉田正作曲。三沢あけみとデュエット。
望郷歌(エレジー)(1987年)荒木とよひさ作詞、吉田正作曲。遺作。鶴田の死の約2か月後に発売。晩年の数年間には、この曲のようにしみじみとした歌謡曲を多く歌っていた。
アルバム
あゝ軍歌(1970年、ビクター、SJX-32)
ブルースを唄う(ビクター、SJX-84)
男/傷だらけの人生 鶴田浩二男の世界(1971年、ビクター、SJV-525)
男の詩 - NHK「ビッグ・ショー」放送番組より(1977年、ビクター、SJX-10188)
関連書籍
杉井輝応『鶴田浩二』(セイント・マーク、1997年)
カーロン愛弓『父・鶴田浩二』(新潮社、2000年)
鶴田さやか『父・鶴田浩二の影法師 末娘が綴った銀幕スタアの真実』(マガジンハウス、2000年)
須藤久『鶴田浩二が哭いている 野坂昭如氏への決闘状』(二十世紀書院、1988年)
『尚武のこころ』(日本教文社、1970年):三島由紀夫との対談
『刺客と組長―男の盟約』のタイトルで所収。※ 1969年(昭和44年)、雑誌『週刊プレイボーイ』」7月8日号に『「刺客と組長」―その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約』のタイトルで掲載されたもの。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 資料によっては、「静岡県出身」としている[2]。
^ つまり、鶴田は私生児である。
^ 関西大学推薦校友(中退者で社会的に功績のあったものを認定 ⇒千成会)
^ 俊藤は1994年の『映画芸術』のインタビューで、鶴田の移籍経緯について「東宝へ行ったときは三船敏郎さんと五分でオモロイものを作ってたけど、だんだんと扱いが悪くなって鶴田さんも嫌気がさしてたんや。そこで、今の東映会長の岡田茂さんが『鶴田浩二はいい役者だ。東映に引っ張ったらどうか』と。その話が鶴田さんに行って、鶴田さんが私んとこへ相談に来たゆうわけや。当時、五社協定で役者の所属がうるさかったんや。『東映から来ないかゆうてきたけど、兄貴、どやろ?』『今の東宝でこのままいたら、お前、潰れるぞ。ええ話やないか。ほなオレが話そう」。それで坪井与(與)さんに会うたら『是非来てくれ』と。東宝の藤本真澄プロデューサーに会うたら、向こうは一も二もなくや。まあそんなことで東映とは繋がりができたんだ」と話している[7]。
^ 共演もある俳優 川地民夫も回想記『平成忘れがたみ』(たる出版、2008年)で、鶴田の屈折した一面を描いている。
^ ノンクレジット。
^ 遺作。
出典^ a b “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
^ a b c d e f g h i 東宝特撮映画全史 1983, p. 532, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」