・坂戸市 北部で隣接している。国道407号では連続した市街地を形成している。
・川越市 南部と東部で隣接。鶴ヶ島駅周辺は川越市と鶴ヶ島市で入り組んでいる。元々は霞ヶ関村と名細村と隣接していたが、1955年4月1日に川越市に編入されたため隣接するようになった。
・日高市 西部で隣接している。川越市と坂戸市とは違い、主に田畑等で隣接している。隣接する市で唯一、鶴ヶ島市よりも人口が少ない。 語源は『鶴ヶ島町史(文化・地誌篇)』(1988年)による。
地名
旧村名
脚折(すねおり)
日本武尊の東夷征伐の折に人馬が脚を折ったことにちなむといわれている。砂礫の多い地という意味で砂居(すなおり)または曽根居(そねおり)の転訛か。高倉・太田ヶ谷などは元は脚折郷に属しており、この近辺の中心的集落であった。北条氏配下の所領として名が見え、白鬚神社・善能寺はともに創建不明だが少なくとも15世紀まで遡る。日光脇往還が通っており、坂戸宿にほど近い。高麗郡加治領。
高倉
奈良時代の公卿高倉福信に因むという説が伝えられているが、証拠に乏しい。日光脇往還と川越越生道が交差する地である。元文年間に武蔵野一帯の開発に携わった代官川崎平右衛門定孝の陣屋が設けられた。高麗郡川越領。
上新田
中新田
下新田
17世紀半ばに分村した高倉村の開墾地で、上中下は用水の上流・下流に対応している。ただし、さらに古い時代にも集落は存在しており、戦国時代に一度廃れたものと思われる。
町屋
中世鎌倉街道沿いに散見される地名であり、普段は人家はなく定期的に市が立つ場所であったとされる。高麗郡高麗領。上新田・中新田・町屋の3大字の住民は1949年(昭和24年)、隣接する大家村へ編入を希望したがならなかった。
太田ヶ谷
太田道真・道灌父子との縁で名付けられたという伝承があるが、陸稲畑作が主な近辺と比して水田地帯であったことから、単純に大きな田のある地・集落という意味と思われる。川越越生道が通っている。高麗郡川越領。
三ツ木
三ツ木新田
中世ごろの遺跡が多く見出される。三ツ木新田は幕末に三ツ木から分離されたが、実質上は三ツ木村に属したままであった。高麗郡川越領。
藤金
大下地区の藤株稲荷には大きな藤の木があったという伝承があり、藤ヶ根から転じたものか。北条氏配下の所領として名が見える。高麗郡川越領。
上広谷
五味ヶ谷
もとは下広谷(現・川越市)とともに、広谷村という1つの村だった。村山党の末裔のなかに廣屋氏があり、その居所であったと考えられる。その後、北条氏配下の所領に「広野」という地名が見えている。五味ヶ谷は江戸時代初期に広谷村から分村したと伝えられ、語源は湿地を意味する「ゴミ」と、地区や集落を意味する「カヤト」から来ているといわれている。実際に五味ヶ谷は鶴ヶ島市域の中でも最も標高の低い地域である。高麗郡広谷郷。
消滅した旧村名
大塚野新田
大塚はかつて存在したという前方後円墳に因んでおり、古代には大規模な集落が存在していたが、その後原野となり元文年間に開墾したという。高麗郡勝呂郷。第二次世界大戦中に坂戸飛行場
戸宮
北条氏配下の所領として「富屋」という地名が見える。高麗郡勝呂郷。坂戸飛行場
太田ヶ谷 | 上新田 | 上広谷 | 共栄町 | 五味ヶ谷 | 下新田 | 新町 | 脚折 | 脚折町 | 高倉 | 鶴ヶ丘 | 中新田 | 羽折町 | 藤金 | 富士見 | 町屋 | 松ヶ丘 | 三ツ木 | 三ツ木新田 | 三ツ木新町 | 南町 | 柳戸町
カテゴリ
人口
鶴ヶ島市と全国の年齢別人口分布(2005年)鶴ヶ島市の年齢・男女別人口分布(2005年)