660年、唐が百済を滅ぼすと、百済の故地に熊津都督府など5都督府を設置。663年4月、新羅に鶏林州都督府を設置し、下部に州県を設置して羈縻州とした。都督には新羅の文武王が任じられている[2][3]。しかし、他の東方部と違って名目上にのみ存在し、実際には機能しなかった。 これは唐が安東都護府を通じて直接新羅に干渉しようとしたことが原因で羅唐戦争が起き、唐が敗れ新羅王に職責だけを付与する形につながったためであった。その後16名の新羅王が鶏林州都督に任じられたが、安史の乱の発生により平盧節度使
が山東半島へ移され?青平盧節度使と改称されると、節度使が鶏林州都督府を兼任するようになった。