鴻巣市
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行田市
北東部で接している。当市とは国道17号、熊谷バイパスなどで結ばれている。吹上地区は中山道と日光脇往還が交差する地点にあたることから、中山道から忍城下へと至る中継地点として栄えた歴史を持つ。また、中山道にほぼ沿った経路で敷設された高崎線でも開通の翌々年に吹上駅が開設され、行田市の玄関口としての機能を果たしており、交流が深い。また、電話番号における単位料金区域では同じ熊谷MAに属し、市内扱いである。高崎線には行田市内に位置する行田駅が存在し、当市内で区画整理が進んでいる新宿(しんしゅく)地区における最寄り駅となっている。ただし、行田駅は行田市の市街地からは離れており、市街地へは吹上駅からの路線バス、または熊谷駅秩父鉄道に乗換えなどの利用が多い(行田駅に同市のコミュニティバスも発着している)。
熊谷市
北西部でわずかに接している。鴻巣市が北足立郡吹上町を編入したことで隣接するようになった。電話番号における単位料金区域では同じ熊谷MAに属し、市内扱いである。高崎線の全ての快速列車(快速アーバン・通勤快速・特別快速)、特急スワローあかぎは、鴻巣駅から同市方面の停車駅は熊谷駅となっている(北鴻巣駅・吹上駅は通過する)。
桶川市
南東部でわずかに接している。当市と桶川市を直接結ぶ公共交通機関は存在せず、北本市を経由する必要がある。高崎線の上り快速アーバンは、鴻巣駅の次は桶川駅に停車する。また、上越新幹線は桶川市との市境を通過する。
加須市
北東部で接している。加須市が北埼玉郡騎西町と合併したことで隣接するようになった。加須駅と鴻巣駅を結ぶバス路線がある。隣接する川里地区とは交流が深い。
久喜市
南東部で接している。久喜市が南埼玉郡菖蒲町と合併したことで隣接するようになった。しかし、当市と久喜市を直接結ぶ公共交通機関は存在しない(北本駅とモラージュ菖蒲を結ぶ路線バスが、当市南東部を通過しているが、直通路線のため当市内に停留所は設置されていない)。
比企郡吉見町
荒川を挟んだ対岸に位置しており、日本一の川幅を共有している。東松山駅および川越駅と鴻巣駅を結ぶバス路線があり、吉見町内で分岐する。
歴史
地名の由来

鴻巣の地名は古来からのもので、この地のほかに
茨城県栃木県福岡県にも同様の地名が存在する。古来からの地名ゆえその由来は不明だが幾つかの仮説が存在する。

高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。

日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ、おぬし[3])が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

コウノトリに関する伝説で、 街の中心にある鴻神社の神の木に巣をつくって災いを防いだコウノトリのお宮「鴻の宮」と名付けられたという伝説から。

源氏ゆかりの地

平安時代中期に源経基武蔵として坂東に赴いた時に館としたと伝えられる伝源経基館跡がある。

嵯峨天皇の皇子である左大臣源融の孫・源仕の頃に武蔵守となって武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市北部)に赴任した。源仕は同地に土着し、地名の箕田を苗字として武家となった。源仕の子が源宛(源充)。源宛の子は源綱(渡辺綱)


伝箕田館(箕田源氏三代の館跡)※推定地付近に石碑(箕田碑)のみ。

宝持寺(渡辺綱が建立と伝わる)

氷川八幡神社(渡辺綱(源綱)が当地に八幡神を勧請したのが起源。(源宛が勧請した八幡宮と源経基が勧請した氷川社を合祀した神社)


箕田観音(渡辺綱の守り本尊を祀っていたと伝わる)


大野神社(源仕が大巳貴命の託宣によって社を造営/源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために獅子頭を掛けて願成ることを祈願)


満願寺(源経基、または源頼義が創建したと伝わる)

変遷

古代から近世までの鴻巣市域は主に
武蔵国足立郡に属し、一部の地域は埼玉郡大里郡に属していた。日本書紀によると534年安閑天皇より笠原直使主が武蔵国国造武蔵国造)を任命され、埼玉郡笠原郷(現在の加須市種足から笠原久喜市菖蒲付近)に拠点を持ったとされる。親類は熊谷市別府に身を置いていたとされている。笠原から元荒川の上流10キロほど離れた埼玉郡埼玉(現在の行田市埼玉)にある埼玉古墳群は同時代の古墳であり、何の基盤の無い当地に突如として、関西地方に匹敵する中型前方後円墳が現れた事、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に彫られたヲワケの父名のカサヒヨがカサハラと読める事から、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の笠原氏の古墳ではないかという説がある。また、元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される。

1591年天正19年)より徳川家康の鴻巣での鷹狩りが頻繁に行われるようになり、1593年文禄2年)には鴻巣砦跡に鴻巣御殿が築造された。
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