鳳翔_(空母)
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レーダー最終時
電探1基、逆探1基[26]
ソナー最終時
零式水中聴音機1基[27]
その他式転輪安定儀1基[28]
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鳳翔(ほうしょう/ホウシヤウ[29]、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:鳳翔󠄁)は、大日本帝国海軍が最初に保有した航空母艦[30]。起工時から航空母艦として設計されて完成した世界初の新造空母[31][注釈 5]
特徴

計画時は特務船(仮称船名第七号特務船[33])で、船名は、特務艦の命名基準である「海峡、水道、瀬戸、港湾、岬、半島の名」に基づき、津軽半島の最北端である竜飛(龍飛)崎を意味する「竜飛(龍飛)(たっぴ)」が予定されていたが、1919年(大正8年)10月に鳳翔と命名された[33]。鳳翔という艦名は、過去に砲艦鳳翔があり、この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目にあたる。

日本海軍が第一次世界大戦で実戦投入した航空機は、水上機であった[注釈 6]同盟国であるイギリスは、第一世界大戦の時点で洋上艦から陸上機を発進させることに成功し[35]、さらに発艦と着艦を可能とする飛行甲板をもった航空母艦を実用化していた[36]。日本海軍はイギリス海軍の空母運用に当初より多大な関心を寄せていたが、自国建造の試みには技術的困難を抱えていた。日本はイギリスに航空使節団の派遣を申し入れる[37]。イギリスは1921年にウィリアム・フォーブス=センピルを長とする軍事技術団(センピル教育団)を日本に派遣し[37]、日本空母建造の中核となる空母デッキの建造技術を指導した。同時に海軍は三菱を通じてイギリス空軍の退役将校フレデリック・ラトランド(en:Frederick Rutland)を航空機設計技師の名目で雇用し、空母着艦技術を日本側パイロットに伝授させた[注釈 7]。このように鳳翔の竣工・運用までにはイギリス人の助力があった。

鳳翔は、設計段階から空母として計画された艦としては、世界で初めて完成した艦である。ただし既成の艦船を改装した改造空母は既に存在し、上述のようにイギリス海軍第一次世界大戦の時点で複数の空母を運用したり、建造をすすめていた[36][注釈 8]。全通式飛行甲板をもつ世界最初の空母はイギリス海軍の貨客船改造空母アーガス (HMS Argus, I49) 、最初から空母として設計された艦はイギリス海軍のハーミーズ(1918年1月)であった[32]。ハーミーズの場合は1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦が終結したため完成を急ぐ必要がなくなり、戦艦改造空母イーグル (HMS Eagle) から得られた経験を元に建造を進めた[注釈 9]。1920年(大正9年)12月16日に起工した鳳翔が[注釈 1]、1922年(大正11年)12月27日に竣工した[2]。こうして鳳翔が日本初の航空母艦となった[31]
構造.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}改装でアイランドを撤去後の鳳翔(1924年)大和(左)を隠す鳳翔(右)の艦首部分(1941年9月20日)。中央やや上は間宮[40]終戦2カ月後の鳳翔(1945年10月)

建造当初の鳳翔は起倒式の3本煙突をもち[41]、安定性強化のため当時の新技術であった須式船体動揺安定儀を採用した[注釈 10]。全通形式の飛行甲板のために8cm高角砲2門は甲板内に引き込み式とした。イギリス空母(イーグル、ハーミーズ)につづき、アイランド構造の艦橋を持っている[41]。しかし元来の艦型が小型であり、また航空機の大型化に伴って飛行甲板幅に余裕が無く艦橋とクレーンが運用上の障害となったため、1924年(大正13年)、飛行甲板前部の水平化を行った際に甲板上の艦橋とクレーンを撤去し、新しい艦橋を前部格納庫の前端部両舷に設置した。そのほか船体各部の補強を行った[43]

機関関係では、1926年から1928年にかけて混焼缶を重油専焼缶に換装した。1936年には運用実績が不良だった起倒式の煙突を外舷から海面に向けて湾曲する固定式の煙突に換装した。煙突の換装により約60トンの重量を軽減できたと伝えられている[44]。また近接火器のルイス 7.7mm単装機銃2丁から九三式 13mm連装機銃6基に更新された。1940年10月に復元性の維持の為に引き込み式の8cm高角砲を2門とも撤去し、代わりに九六式 25mm(60口径)連装機銃6基に更新され、舷側に張り出し(スポンソン)を片舷2か所ずつ計4か所に配置した。1942年に対空火器の強化のため14cm単装砲4基を撤去し、25mm連装機銃2基を追加したため、更にスポンソン2か所を新設して計6箇所となった。
着艦装置初期の着艦時、一〇式艦上戦闘機と縦索式制動装置。手前に見える展張装置(高さ約20cm)奥に見える駒立(高さ約45cm)。1922年 東京湾にて航空艤装試験中。艦橋後部に通常の展張装置より間隔の狭い駒立が確認出来る。(広島県呉市海事歴史科学館所蔵品)改装後の着艦風景。

竣工時の飛行機拘束装置は英国より導入した縦索式制動装置であった、これは約100mの長さの制動索を約15cm間隔に張り渡し、着艦する機体の前方車輪間と尾橇付近に設けた複数個の鉤との摩擦を利用して制動距離を短くする方式で、鳳翔では車輪が当ると倒れる展張装置を兼ねた高さ約45cmの駒立(ハードル)を9ヶ所設置し、更に制動距離を短くする方式を採用したが着艦事故は絶えなかった[45]。この縦索式制動装置での着艦は「二点着陸」と言う前輪を先に接地させる陸上で用いる着陸方法であった[46]。またこの他にも甲板上の島型艦橋やクレーン、飛行甲板前部の下り傾斜なども相まって鳳翔での発着艦は困難を極めたが上述の通りこれらはのちに改善される。

その後昭和三年頃まで各種飛行機をもって発着艦試験を行い、萱場製作所が「萱場式制動装置」を考案、その後フランスからフュー式の横索式制動装置を輸入し加賀に設置した、鳳翔、赤城で実装された以後の空母は全て横索式制動装置となり、後更には呉海軍工廠製の呉式制動装置も出現した[47]

横索式採用後の着艦には「三点着陸」と言う方法を用いる事となる[48]


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