鳩山一郎
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

在任期間1915年3月26日 - 1946年5月7日[1]
1952年10月2日 - 1959年3月7日
東京市会議員
当選回数1回
在任期間1912年4月2日 - 1915年3月26日
その他の職歴
初代 自由民主党総裁
1956年4月5日 - 1956年12月14日
テンプレートを表示

鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年明治16年〉1月1日 - 1959年昭和34年〉3月7日)は、日本政治家弁護士

第52・53・54代内閣総理大臣位階勲等は、正二位大勲位55年体制が成立してから初の総理大臣であった。
概説

1912年明治45年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となって55年体制を築き、日本ソビエト連邦の国交回復を実現した。
年譜

1883年(明治16年)
東京市牛込区(現・東京都新宿区東五軒町に出生。父・鳩山和夫文部省第1期留学生、弁護士、東京府会議員。母・春子東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立。

1895年(明治28年) 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。

1900年(明治33年) 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。

1903年(明治36年) 旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)卒業。

1907年(明治40年) 東京帝国大学法科大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める。

1908年(明治41年) 愛国団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。

1911年(明治44年) 父・和夫が没した(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長)。

1912年(大正元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。

1915年(大正4年) 立憲政友会公認で衆議院議員に当選。

1918年(大正7年) 長男・威一郎誕生。

1924年(大正13年) 政友会分裂に伴い、政友本党に参加。

1925年(大正14年) 政友本党を離党、翌年に同交会を経て政友会に復党。

1927年(昭和2年) 田中義一内閣内閣書記官長(1929年まで)。

1931年(昭和6年) 犬養内閣文部大臣。五・一五事件後、斎藤内閣で引き続き文部大臣(1934年まで)。

1933年(昭和8年) 文部大臣として滝川事件に関与。

1934年(昭和9年) 帝人事件で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職)。

1937年(昭和12年) 中島知久平前田米蔵島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任する。

1939年(昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する。

1942年(昭和17年) 翼賛選挙に非推薦で出馬、無所属で当選。

1943年(昭和18年) 東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁。

1945年(昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、日本自由党結成(総裁)。

1946年(昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが、公職追放となる。

1951年(昭和26年) 脳出血で倒れる。追放解除。

1952年(昭和27年) 第25回衆議院議員総選挙で政界に復帰。

1954年(昭和29年) 11月 日本民主党結成(総裁)、12月 内閣総理大臣になる。第1次鳩山一郎内閣発足。

1955年(昭和30年) 1月「天の声解散」、総選挙で民主党は比較第一党となるが過半数は制せず。3月 第2次鳩山一郎内閣発足。11月 保守合同により自由民主党結成(55年体制も参照)。第3次鳩山一郎内閣発足。

1956年(昭和31年) 自民党初代総裁に就任し、モスクワで日ソ共同宣言に調印。日ソ国交回復を花道に内閣総辞職。

1959年(昭和34年)狭心症のため死去。墓所は東京都台東区谷中霊園大勲位菊花大綬章が没後受勲された。

戦前1935年

戦前は主に立憲政友会の議員として活躍した。

ただし、1924年大正13年)の政友会分裂では政友本党に参加して一時期政友会を離脱していたが、1926年(大正15年)には自身が中心となって合計26名で政友会に復党し、田中義一総裁に気に入られて復党早々に幹事長に登用されて党内の反発を受けた[2]

1927年(昭和2年)の田中義一内閣でも内閣書記官長に就任するなど、重用された。
統帥権干犯問題

1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇統帥権の干犯に当たるとして犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。

また、この時期の政友会は田中義一及び犬養の後任の鈴木喜三郎両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまったことになる。

さらに第2次若槻内閣末期には山本悌二郎森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山今村均東條英機らに倒閣を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた[3]

こうした行動は占領期になり、GHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。

統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱める結果となり、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。
犬養内閣以後


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:199 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef