山体には数多くの崩壊痕跡が残る[20][21]。その中でも紀元前466年に北麓で生じた崩壊は、26億立方メートル[22]から27億立方メートル[23]程度と推定される崩壊を生じ、痕跡地形は東鳥海馬蹄形カルデラと呼ばれる[21]。この崩壊により生じた泥流は象潟泥流とも呼ばれ、山麓の象潟平野部の田園地帯に多数の流山を形成した[21]。 鳥海山から流れ出した新山溶岩流の末端崖には、湧水地が点在している。特に山麓の獅子ヶ原湿原は、標高500mながら、多様な高山性のコケ類が見られ、2001年に天然記念物に指定された[24]。 『鳥海山史』[25]によれば、由利郡小瀧(鳥海山修験の拠点の一つ)の旧記に敏達天皇7年(578年)1月16日噴火した[26]ことが、由利郡直根村旧記に推古天皇御代の噴火と元明天皇の和銅年間(708年 - 715年)に噴火したことが、由利郡矢島(鳥海山修験の拠点の一つ)においては元正天皇の養老元年(717年)6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史の記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考察している。 この山は正史へ大物忌神の名で登場し、度々神階の陞叙を受けているが、正史に現れた最初の授位の記事は『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条における記述である。(神階陞叙の詳細については 鳥海山大物忌神社 を参照のこと。)大物忌神という神について『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[27]では、物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、夷乱凶変を忌み嫌って予め山の爆発を発生させる神であると大和朝廷は考えたのではないか、と考察している。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[28]においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇の対象となっていたと述べ、(姉崎岩蔵.鳥海山史)も同様の考察をしている。しかし、秋田県の郷土史家田牧久穂 『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条では大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙しているが、同記事では陞叙の理由を、大物忌神が雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて敵の撃退に神威を表したからだとしている[注釈 1]。この記事により、大物忌神が出羽国の火山らしいことが初めてわかるが、山の姿をより詳細に記述し、大物忌神が現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある、下記の出羽国司の報告である。 《出羽国司の報告。従三位勳五等の大物忌神社は飽海郡の山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。
火山の恵み
人間史