愛知県西春日井郡清洲町(現:清須市)の町立清洲中学校[31]、同県一宮市の愛知県立起工業高等学校(現在の愛知県立一宮起工科高等学校)デザイン科を卒業した[32]。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていた[33][34]。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、起工業高校デザイン科に進学した。高校時代は美術部に所属した[32]。
「高校時代はマンガ研究同好会に所属し、同好会の会長にもなったが漫画を描くことはなかった」という[35]。鳥山が漫画同好会を設立するに当たり、教諭に同会顧問に就任してほしい旨を頼んだところ、教諭は一旦は「漫画を描いている暇があったら、デッサンでもやっておきなさい」と断ったものの、鳥山は別の教諭に依頼して同好会を発足させ、後に部に昇格した[32]。1974年に同校を卒業した。 高校を卒業した1974年、絵を描く仕事に就きたいと思い、地元の広告関係のデザイン会社「第一紙行名古屋支店」[36]にデザイナーとして就職した。 しかし、平然と遅刻を繰り返し[37][38]、レタリング作業が主な仕事になり嫌気が差していたという。最終的に、約2年半[39]ほど経った1977年[40]1月[41]に退職した。本人は「わずかでも世間の仕組みを知ることができて、無駄ではなかった」と述べている[39]。 デザイン会社を退職後、1年間はアルバイトでイラストを手掛けていたが[26]、その後は遊ぶ金もなく途方に暮れていたある日、喫茶店[42]で偶然手に取った漫画雑誌の『週刊少年マガジン』で、新人賞の作品募集の記事を見つける。入賞すると賞金50万円が手に入ることを知り、23歳にして初めて漫画を描き始めた[43]。結局、締め切りには間に合わなかったため、1978年1月に『週刊少年ジャンプ』の新人賞である月例ヤングジャンプ賞へ応募作品の『アワワワールド』を投稿する[29][44]。投稿したのはギャグ漫画であるが、その理由はストーリー漫画と賞金が一緒なのにページ数は半分であったため[38][45]。 投稿した作品は入賞には及ばないかったものの[46]、すぐにまた描き上げた鳥山の投稿作品『謎のレインジャック』を目にした『週刊少年ジャンプ』の編集者の鳥嶋和彦は作中の描き文字(擬音、擬態語など、写植以外の文字のこと)をカタカナでなくアルファベットを使用していることや、対象を様々な角度から描けること、絵が丁寧に描き込まれていることにセンスを感じ[38][47]「今は下手だが頑張れば何とかなるかもしれないから、もっと描いて送ってよ」とアドバイスをした[44]。この頃は『スター・ウォーズ』のパロディなどを描いており[47]、一部の作品は後にファンクラブの会報に掲載された。なお、この作品自体はパロディは賞の対象にならない規定により選外になった[38]。 鳥山は厳しくネームのボツ(不採用)を出す鳥嶋のもとで懸命に修行することになる。この間のボツ原稿の総量は、1年で500ページにも及んだ[38][48]。 鳥山明は本名である。デビュー前は「どうせ売れる訳がない」と思っており、ペンネームを使う発想もなく本名で通した[29]。『Dr.スランプ』第11巻によれば愛知県に3軒しかない変わった名前で、デビュー直後はイタズラ電話がよくかかって来たという。そのため、“水田二期作(みずたにきさく)”というペンネームを使おうとも考えたが、担当者に「つまらん」とボツにされた[28]。「本名を使ったことが漫画家になって一番後悔したこと」であるという[29]。ただし、鳥山明のデビュー当時の愛知県の電話帳を調べると、名古屋版の五十音別電話帳に載っている、局番が名古屋市と同じだが名古屋市でない地域の鳥山家は3軒であるものの、その他に名古屋市内の鳥山家が77軒載っている[49]。名古屋以外の愛知県の各電話帳にも合わせて300軒ほどの鳥山家が載っている[50]。 1978年、『週刊少年ジャンプ』にて読み切り作品『ワンダー・アイランド』でデビューを飾るも、読者アンケートの結果は最下位であり[51]、その後『週刊少年ジャンプ』本誌や増刊号で発表した短編作品の人気も、芳しいものではなかった。
デザイン会社時代
デビューまでの経緯
Dr.スランプの連載『Dr.スランプ』の完全版