鳥山明
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代表作の『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部を記録[11]、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録[12]、『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数を記録している[13]

日本の漫画が海外で「MANGA」と呼ばれ、世界に広まるきっかけを作った先駆者であり、数多くの文化に影響を与え、「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と評価されている[14][15][16]
概要

1978年に『週刊少年ジャンプ』52号にて読み切り作品『ワンダーアイランド』でデビュー。集英社との専属契約下で『週刊少年ジャンプ』などジャンプ系列誌に作品を発表。代表作『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』はいずれもテレビアニメ化され、1981年から1999年にかけてフジテレビ系列の毎週水曜日19時 - 19時30分は『Dr.スランプ アラレちゃん』から始まり、『ドラゴンボール』『ドラゴンボールZ』『ドラゴンボールGT』『ドクタースランプ』と、長期にわたり鳥山原作のアニメが放映されていた。「フジテレビ系列水曜夜7時台枠のアニメ」も参照

漫画家としての活動の合間にデザイナーとしても活動し、『ドラゴンクエストシリーズ』などのゲームやマスコットキャラクターデザイン、プラモデルや車などのデザインを多数手掛けている。漫画家デビュー以来、地元で活動を行っており、『Dr.スランプ』単行本(1980年発行)の描きおろしページによると、当時は名古屋空港(小牧空港)から航空便で東京に原稿を送っていた[注 2][19]。初代編集担当者の鳥嶋和彦によれば、鳥山は『Dr.スランプ』連載中も東京で暮らすことを嫌がって地元の愛知で暮らしており、連載中に一度でも原稿が締め切りに間に合わなかった場合は東京で暮らしてもらうという約束で連載をしていたが、結局一度も原稿を遅延させることはなかったという[20]

1980年から1990年代の『(週刊少年)ジャンプ』の全盛期を支えた立役者であり、当時編集長を務めた西村繁男は、「『週刊少年ジャンプ』発行部数600万部達成の快挙は、鳥山明の破壊的なパワーを借りて初めて実現し得たことは、誰も否定できないだろう」と評価している[21]

『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』は2024年の現在でも、コマーシャルに起用されたり、グッズが作られるなど根強い人気を博している。

2024年3月1日、急性硬膜下血腫のため死去。68歳没。訃報は同8日に『週刊少年ジャンプ』公式サイト、集英社、バード・スタジオおよびカプセルコーポレーション・トーキョーの連名で公表された[22]。 
生涯
幼少時代

初代担当編集者の鳥嶋和彦と面会した鳥山は自分の生い立ちについて語り、「家は貧しかったが両親共にのんびり屋の性格で、食べ物を買うお金がない代わりに、両親は二人でワルツを踊るような人だった」と本人が述べている。

鳥山自身は絵を描くことが好きで、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていた[23]。欲しい物があるとそれを手に入れるまで、あるいは興味がなくなるまで絵に描き続ける癖があり、その癖は漫画家になって以降も続いている[24]。「当時通っていた絵画教室で描いた『101匹わんちゃん大行進』が表彰されたことで自信を持った」と言い[25]、小学校の写生コンクールで数回入賞し、高校時代には美化キャンペーンのポスターで全国高校生の部で入賞している[26]。妹がいる。よく悪戯をしていて、父親に怒られていた[27]

尊敬していた漫画家は手塚治虫ウォルト・ディズニーで、『鉄腕アトム』に登場するロボットを毎日いたずら描きしていた[28]。一番影響を受けたのはディズニーアニメであり[29]、『101匹わんちゃん大行進』にディフォルメの影響を受けて毎日模写をしていた[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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