鯰絵
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鯰絵も「災害を当時の風俗を交えて面白おかしく描かれる」「江戸っ子の洒落っ気」などと評される[28]。朴炳道は、鯰絵に描かれる被災者の恨みや怒りあるいは死者について「描かれているが存在感が薄い」として、これらを詳細に記録する災害見聞記との差異を指摘する[29]

世直し論を唱える宮田は、鯰絵にみえる風刺について庶民がもつ世直しへの願望が表出したと評する[30][31]。また災害ユートピア論を唱える北原は一時的な感情の現れ、あるいは罹災者を励ます「癒しとしての情報」の機能を指摘する[30][32]。気谷誠も風刺は震災を笑い飛ばそうとする姿勢としたうえで、一種のサイコセラピーであったと評している[30][33]。臨床心理学を専門とする福田周も、鯰絵がもつ「遊び」が震災体験というトラウマに作用し、自然治癒を促したと指摘する[34]

また為政者や社会への批判を込めた風刺もみられる(図7-3)[13]。アウエハントは天災を為政者に対する罰とみなす天譴論を引用し、鯰絵を落書落首の延長線上に位置づけた[16]。若水俊も「鯰絵を絵画と文章からなる落書」としたうえで[35]、伝統的な落書に慣れ親しんだ江戸っ子は鯰絵に込められた風刺を直感的に理解することが出来たことが鯰絵の隆盛に繋がったと指摘する[36]。ただし小松は、鯰絵の制作者が売れる事に腐心した結果であって、彼らに民衆を啓蒙しようとした意識はなかったとしている[13]
品質

明治時代の浮世絵では5種から15種の絵具が使用されているが、震災後の混乱下で版行された鯰絵に使用された色の種類は少ない。国立歴史民俗博物館による調査によれば、鯰絵は赤・藍・黄・灰色の4色を基本とし、これを混ぜた中間色を含めると5色から8色で製作されたものが多い[37]。また鯰絵は彫りや摺りも粗雑なものが多く、浮世絵・美術品としての評価は低い[4]
沿革
地震鯰の成立
鹿島大明神と要石

要石は古代日本における石神信仰が、仏教にみえる金剛宝石[注釈 3]からの影響を受けて成立したと考えられている。この金剛宝石がある場所として、中世から知られていた場所のひとつが鹿島神宮であった[38]。また鹿島神宮の要石が地震を抑えているという信仰も中世まで遡る。『言経卿記』の文禄5年(1596年)閏7月15日条に地震まじないとして著名な以下の歌が記されている[38]。ゆるぐとも よもやぬけじの要石 かしまの神のあらんかぎりは[38]
大蛇から鯰へ4.『ぢ志ん乃辨』
行基式日本図を龍蛇取り巻く。この作品の源流は寛永元年(1624年)まで遡ることができ、江戸初期に広く流布された地震のイメージであった[39]

いっぽうで江戸時代初期までは地震を起こすのは大蛇(龍)だと考えられていた。「大地を動物が支えており、これが動くと地震が起きる」という地震神話は世界各地に見られるが、この動物を蛇とする神話は東アジア各地にみられる普遍的なものである[31][38]寛永元年(1624年)に製作された『大日本国地震之図』では、日本列島を龍蛇が囲い、その頭と尾が重なった常陸国要石が描かれている(図4)[31]。また浅井了意寛文2年(1662年)に発生した寛文近江・若狭地震の顛末を記した『かなめいし』でも「龍王いかる時は大地ふるふ」と記される[31][38]

このような地震神話・民間信仰とは別に、蛇が鯰に変わる伝説が中世までに成立する[40]。『竹生島縁起』には龍蛇が大鯰に変じて琵琶湖の主になったと記されている[40]

この伝説の影響を受けて地震神話における大地を支える大蛇が地震鯰に置き換わったとされるが、これを示唆する論述は次の松尾芭蕉の俳句とされている[41]。大地震つづいて龍やのぼるらん(似春)
長十丈の鯰なるらん(桃青) ? 延宝6年(1678年)[41]

このような経緯を経て地震鯰が成立した時期は明らかではないが、北原は概ね17世紀後半としている[41]
地震鯰と鹿島の習合

やがて地震鯰は前述した鹿島大明神と要石に結び付けられ、「普段は鹿島大明神が要石で抑え込んでいた大鯰が暴れたから地震が起きる」という地震神話が成立した[42]。こうした神話が成立した背景について宮田登は、鹿島神宮の鯰男伝説の影響を指摘する。寛永10年(1533年)に発生した地震に際し、鹿島の事触(神のお告げを言いまわる鹿島神社の神官)が御輿を担いで厄を払ったという伝承があり、また鹿島の事触を鯰であるとする伝説があった[31]。近世の俳諧手引書を検証した気谷は、鹿島と地震鯰を結びつけた俗信が定着した時期を寛文から延宝にかけてとしている[43]
災害瓦版と鯰絵の誕生5.『かわりけん』
女郎と鯰がかわりけん(じゃんけんに似た遊び)を行い、阿弥陀如来が鯰の髭を引っ張っている。上部の文章は右頁が「とてつる拳」の替え歌で左頁に災害の様子が記される[44][45]

18世紀後期に行われた寛政の改革以降、時事報道を行う瓦版は幕府によって厳しく統制されるようになったが、無許可の瓦版が版行されることは止めることが出来なかった[46]。もっとも早く版行された鯰絵は文政2年(1819年)に発生した文政近江地震の災害瓦版『文政二己卯年大角力』だとされる[47]

文政の大火(1829年)でも多くの瓦版が無許可で版行された。これに対し幕府は強硬な取り締まりで対応したが、これが逆に不穏な噂を呼んだ。それゆえ幕府も方針を転換せざるを得なくなり、文政の大火以降は幕府に対する厳しい批判が無い限り災害瓦版の版行は黙認されるようになった[46]

また天保の改革(1842年)により地本問屋仲間が解散すると本来は出版権を持たない新興の版元が急増し、絵草紙を販売するようになる。こうした新興の版元には常習的に「改め」を受けない無許可出版を行うものが少なくなかった。湯浅淑子は、こうした版元の存在が安政大地震の後に鯰絵が大量に出回る素地となったと指摘する[45]

次に鯰絵が版行されたのは、弘化4年(1847年)3月24日に発生した善光寺地震の災害瓦版である。ここでは人々の興味を書き立てるような姿で地震鯰が描かれている[47]。災害発生時、善光寺では50日間にわたる御開帳が行われている最中で、全国から7千から8千人の参詣者が訪れていた。震災により善光寺の周囲は壊滅的な被害を被ったが、善光寺本堂は被災を免れてここに逃げ込んだ500から1000人と言われる信者は難を逃れた。この事は善光寺信仰を称揚する結果をもたらした[48]。2021年現在、善光寺地震にまつわる鯰絵は3点が確認されているが、いずれも鯰と相対するのは阿弥陀如来である(図5)[49]

これに続くのが嘉永6年(1853年)に発生した小田原地震に関連する『相州箱根山小田原御城下大地震之図』である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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