鯨肉
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欧米での食文化の流れ鯨肉のステーキ(ノルウェーの家庭料理、醤油味)アイスランドで売られているミンク鯨肉の串焼き料理。

世界各地の沿岸部で古くから鯨肉を食していたことは、考古学的研究から判明している。中世ヨーロッパにおいては、例としてビスケー湾などでバスク人によって組織的な捕鯨が行われ、鯨の舌が珍重された他、肉は広く沿岸民の食糧となった。中世ヨーロッパにおいては、特にイルカが食用として好まれ、串焼きやプディングパイなどに用いられた。変わった料理法では、捕鯨船などでまれに供されたイルカのみそのフライが挙げられる。大型鯨が食品とはみなされなくなった後も、イルカについては比較的最近まで食用とされていた。15世紀イングランド家庭料理についての本にもイルカ料理が登場する。イングランドの宮廷では17世紀頃までイルカの肉が供された。

カトリックにおける小斎のような信仰上の理由から肉食が禁じられている時に、禁忌に触れない「魚」として鯨肉を食べることも多かったようである。

しかし、沿岸鯨類資源の枯渇から沖合い・遠洋へと漁場が移動するにつれ、冷蔵冷凍技術がない当時においては持ち帰りが困難となり、徐々に食用とすることができなくなっていった。なお、鯨肉が利用されなくなったにもかかわらず捕鯨が継続された理由は、鯨油やクジラヒゲなどに工業原料としての価値があったためである。そして沿岸から離れる過程で、鯨を食用と見る発想そのものが失われていった。19世紀アメリカ合衆国の捕鯨船に救助された日本人船員も、アメリカ人船員の「大型鯨肉は毒だからと食べない」という証言を記録している。当時のアメリカ式捕鯨の対象種マッコウクジラは高級な機械油になる鯨油の元となったが、その油に蝋を含み、肉も加工せずに食べると下痢をする恐れがあり、あながち間違いともいえない[2]。こういった事情から新鮮な鯨肉が手に入り、なおかつ新鮮な食料を必要としていた捕鯨船上ですら、イルカ以外の大型の鯨については一部の船員を除けば食用とはしていなかった。ただし、19世紀に刊行されたハーマン・メルヴィルの『白鯨』にも「イルカの美味はよく知られている」という記述や、ある捕鯨船員の特殊な嗜好としてではあるが大型鯨のステーキを食べる描写もある。また、アメリカの捕鯨船上において、肉を食べる事はなかったが、小麦粉をまぶした鯨のを鯨油で揚げたフライや、鯨油自体を食用油に使っていた記録があり[3]、前述のイルカも食用とされた。

なお、後に食用に適したヒゲクジラ(主にセミクジラ)の鯨油でマーガリン生産が可能となった時にも、鯨は食品とはみなされていなかったために、鯨製品であるということは秘されて販売されていた。ただしノルウェーアイスランドなど沿岸での捕鯨が継続された地域では、例外的に鯨肉食が残存している。第二次世界大戦時のイギリスなど一部では食糧難の際の代用食として推奨されたが、あまり定着しなかった。1950年頃にも鯨油価格低下への対応策として鯨肉の商品化が検討されたが、これも失敗に終わり、ペットフードなどに転用された。最近の鯨体の食用利用としては、前述の鯨油マーガリンを除けば、ノルウェーなどが生産した鯨肉エキスを牛肉エキスの代用としてコンソメ原料などに使用していた例がある程度である。
エスキモーによる利用の歴史シロイルカのマクタックを食べるイヌイット

エスキモーと総称される北極圏の先住民にも、鯨肉食の文化がある。現在でも、国際捕鯨委員会より先住民生存捕鯨でのホッキョククジラコククジラの捕獲を認められているほか、制限外の小型鯨類も捕獲して食料としている。

うちカナダの先住民(イヌイット)は、古くはホッキョククジラを最重要の食料資源としていた。その後、寒冷化によるホッキョククジラの減少から、アザラシなどに主食を移したが、鯨肉食の文化も続いている。現在でもシロイルカの捕獲を続けている。特にクジラやイルカの皮下脂肪付きの皮の部分をマクタック(en:Muktuk)と呼んで珍重し、最高の御馳走とみなしている。マクタックはそのまま小さく切って、口の中で噛み続けて味わう。
日本での食文化の歴史

日本においても、組織的な捕鯨産業の成立以前から、沿岸部で鯨肉を食用としていた。小型のハクジラ類を中心に、縄文時代以前を含む旧石器時代貝塚や、弥生時代の遺跡などから鯨骨の出土例があり、縄文時代早期(約6000年前)長崎県田平町にあるつぐめの鼻遺跡で、鯨類捕獲や解体に使われたとみられる石銛や石器が出土している他、縄文時代前期(約5000年前)石川県能登町の真脇遺跡や富山県氷見市の朝日貝塚などで大量の鯨類の骨が出土している。

縄文時代中期(約4000年前)には九州各地の遺跡で鯨類の椎骨を製作台にした「鯨底土器」などの文化も見られる。漁労文化の強かった九州では早くから捕鯨が行われていたと思われる[4]

日本では宗教上の理由などから[注釈 1]、「肉食」が忌避されたり、公式には禁止されたりする時期が歴史上で度々あったが、欧米の場合と同じく「魚」として食用にされていたようである。イノシシの肉(牡丹肉)は食感が似ているとされ、江戸時代には山鯨という隠語で呼ばれていた。また伝統的食材ではあるが鯨肉が食文化として全国的に広まったのは戦後の食糧難時代である[5]。商業捕鯨の停止によって鯨肉の消費は大きく落ち込み商業捕鯨が再開された後も変わっていない。捕鯨基地のある沿岸部では学校給食に取り入れるなど地域の文化として振興政策を行っている。
奈良時代から室町時代の鯨肉贈答の記録

712年和銅5年)の古事記のなかで神武天皇に鯨肉が献上されたという記述がある。文献『古事記

1570年永禄13年)織田信長禁裏へ鯨を献上。山科言継は禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領した。文献『言継卿記

1577年天正5年)水野監物が織田信長に鯨肉を贈った、その返礼が信長よりなされており「鯨一折到 来候細々懇 情別而悦入候 猶参上之時 可申候也 正月十六日信長」という内容の感状が書かれている。文献「織田信長から水野監物への黒印状」

1578年(天正6年)、織田信長が家臣の細川藤孝(幽斎)に宛てた正月12日付の書状に、現在の愛知県知多半島で取れた鯨肉を朝廷に献上し、藤孝にも裾分けする旨が記されている。

1582年(天正10年)鯨肉ではないが、「鯨桶」(鯨肉を運ぶための専用の木桶)が、伊勢国より正親町天皇へ2つ、誠仁親王へ1つ、勧修寺晴豊へ1つ献上された。文献『晴豊記』

1589年(天正17年)高橋丹波守は北条氏政北条氏規に鯨肉を献上した。

1591年(天正19年)長宗我部元親豊臣秀吉に鯨一頭献上。文献『土佐物語

1612年慶長17年)里見忠義が榎倉長兵衛を介して伊勢神宮に鯨の尾の皮を献上している。「一、領分の船、鯨留め候上、壱疋の内より、初尾の為一尺八寸の皮壱枚宛とらるべく候事 慶長拾七 弐月七日 忠義判 榎倉長兵衛殿」(『千葉県鋸南町の醍醐家の古文書』)[6]

室町時代から江戸時代の鯨料理に関する書籍

室町時代末期に『四條流庖丁書』という料理書に食材としての魚の格付けとして最高位に鯨、二番目が、その他の魚は鯉以下として挙げられている。

室町時代に『大草家料理書』(欠年)という料理書に鯨肉の料理が記載されている。

1561年(永禄4年)には『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』のなかで三好義長が自邸宅において鯨料理で足利義輝をもてなしたという記述が残されている。

1643年寛永20年)に『料理物語』という料理書の中で10種類の鯨料理が紹介されている。

1669年に『料理食道記』という料理書には、日本各地の鯨肉産地(詳細後述)が記載されている。

1763年宝暦13年)に『料理珍味集』という料理書に「鯨蕎麦切」という鯨料理が紹介されている。


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