鮎川誠
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中学時代はロックの他、野球オートバイプラモデル、山歩き、魚釣りなどに熱中。中学2年生の時、リトル・リチャードに夢中になる。1964年1月頃、中学3年の時、隣席の生徒が弁当を包んできた新聞を見てビートルズの名前を知る。高校受験勉強中のFENでビートルズの音楽に接し、1964年、久留米の名門福岡県立明善高等学校に入学。同年、ローリング・ストーンズを知る。高校在学中に友人からマディ・ウォーターズなどブルースレコードを借りて聴いた事や、KBCラジオの当時の人気番組「ヤング・ポップス」の影響で洋楽に興味を持つ。高校時代は、部室にレコードプレイヤーがあるというだけの理由で新聞部に在籍。部室に友人のギターアンプを持ち込んで「ジェニ・ジェニ」「ルシール」「カンサス・シティ」などを練習していた。1965年冬、修学旅行に行く代わりに、その費用を払い戻させて、友人からエレクトリックギター(テスコのセミアコ)を4500円で購入。

1966年、ビートルズ日本武道館公演に刺激されてアマチュアバンド「ザ・スランパーズ」で活動を始め、ローリング・ストーンズやビートルズ、ヤードバーズをコピー、久留米で一度だけライブを開く。親の反対にあったが、九州大学への進学を条件に許され、現役で九州大学経済学部を受験するもロックに熱中しすぎたために失敗。大学入学後のバンド活動を目的に1年間必死に独学で勉強し、1968年九州大学農学部に入学。同時期、浪人時代に知遇を得たバンド「ジ・アタック」に加入。家庭が貧しかったため、奨学金を貰って大学に通いつつ、福岡市中洲のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活を送る。この当時は、主にフォー・トップステンプテーションズなどのモータウンナンバーや、ウィルソン・ピケットソロモン・バークオーティス・レディングジェームス・ブラウンブッカー・T&ザ・MG'sなどのスタックスナンバーを演奏していた。音楽活動の傍ら、生活のためモデルの仕事をしていた時期もある。

1970年代

1970年、ジ・アタックのギタリストだった篠山哲雄、バンド活動を通して知り合った柴山俊之らとサンハウスを結成。

1974年

九州大学農学部農政経済学科を卒業[2]

ワンステップフェスティバルにサンハウスで出演し、ジョン・レノンプラスティック・オノ・バンドと共演。


1975年メジャー・デビューを果たし、リード・ギタリスト兼作曲家として、ボーカル兼ソングライターの「菊」こと柴山とともにバンドの顔となる。1978年のサンハウス解散まで在籍。

1976年シーナの妊娠を機に結婚。

1978年

シーナの父に励まされて夫婦で上京し、シーナ&ザ・ロケッツ結成。

この年に母を亡くしている。

エルヴィス・コステロの来日公演のオープニング・アクト(看板では名目上、対バンと明記されていた)を福岡・大阪・東京で務めた時、東京初日のステージが高橋幸宏から注目され、イエロー・マジック・オーケストラ(以下YMO)のライブ・セッション(二度目の六本木ピット・インでのライブ)に参加。


1979年

アルファレコードへ移籍。

YMOの協力を得て、アルバム『真空パック』を発売。シングル「ユー・メイ・ドリーム」が、日本航空の「マイ・ハート・キャンペーン」のCMに使用されブレイクを果たす。その後、アメリカのA&Mレコード、フランスのスカイドッグ・レコードなど海外でも同アルバムを発売。

YMOの2ndオリジナル・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に鮎川がアルバム表題曲と「デイ・トリッパー」の2曲にギターで参加。

YMOワールドツアー後の「凱旋公演」(12月19日・中野サンプラザ)では、シーナ&ザ・ロケッツがオープニングアクトを務める。


1980年代

1980年

YMO初の国内ツアー(福岡・神戸・京都・札幌・東京)のゲスト・ギタリストとして鮎川誠が参加。

9月、シーナ&ロケッツ3rdアルバム『Channel Good』発売、細野晴臣高橋幸宏プロデュースの下、YMOが全面参加した。


1981年日本武道館にて開催された写楽祭ではYMOとシーナ&ロケッツが共演。4thアルバム『Pin-up baby blues』はスティーヴ・ダグラスをゲスト・サックスに招き、ミッキー・カーチスのプロデュースにより東宝スタジオでのライブ・レコーディングにて発売。

1984年ビクター音楽産業/Invitationへ移籍。SPEEDSTAR RECORDSには1992年の創設以来30年以上在籍している。シーナが鮎川との三女LUCYを身籠った産休中は、自らがメインボーカルをとりTHE ROKKETS名義でライブ活動を行う。ソロアルバム『ROKKET SIZE』も発表。(シーナは同年『ニュー・ヒッピーズ』でバンドに復帰。)

1988年、ニューヨークのCBGBでライブデビューを果たす。

1990年代

1990年学生援護会(現・パーソルキャリア)『サリダ』のTV-CMで「憲法第22条の歌」(職業選択の自由・アハハン)を歌ったことでも話題になった。

1996年2月、まだインターネット黎明期に日本のバンドとして初となるホームページを鮎川が立ち上げ、インターネットとの奮闘を書き下ろした「DOS/Vブルース」を幻冬舎から発売し、1998年AMDアワードを受賞。シーナ・鮎川陽子と共に受賞式に出席。

1998年

フジロックフェスティバル '98 in Tokyo」に出演。

沖縄・北海道ツアー開催。

5月、鮎川誠生誕記念オールナイトパーティ開催。


1999年

3月、新宿ロフト最後の日にワンマン出演。

5月、ウィルコ・ジョンソン+シーナ&ロケッツ・ジャパン・ツアーを開催。

12月、『ブルースフェス』 at 新宿パークタワーに出演、ロイ・ヘインズと競演する。


2000年代

2001年

1月、初期の名曲から最近の楽曲までを網羅したライブ・ベスト・アルバム『爆音ミックス "Bak-On Mix - 19Lives』発売、鮎川が自ら運営するオフィシャルサイトにてファン投票により選曲された。

4月、連続テレビ小説ちゅらさん』(NHK)にジョージ我那覇役で出演、役柄は那覇在住のロックの師匠。

北九州博覧祭2001に出演。

郡山ワンステップフェスティバル復活イベント『ワンステップへの旅 in うつくしま未来博』に出演。


2002年

鮎川ソロで『ジャパンブルースカーニバル2002』に出演。

SHIBUYA-AXにて開催された日韓交流イベントに出演、シーナ&ロケッツとディー・ディー・ラモーンのジョイントライブを開催予定だったが、ディー・ディー・ラモーンが6月5日に急逝したことから急遽追悼ライブとして行われる。


2003年

渋谷クロスFM7周年を記念するライブ『SHIBUYA-CALLING』に出演。

7月、2作のベスト・アルバム『Dream BOX』『The Greatest Sheena & The Rokkets』を発売。

「フジロックフェスティバル'03」、「ライジング・サン・ロックフェスティバル2003 in EZO」、「ミュージックシティ天神」に出演。
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