魚雷
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ルッピスの計画では、時限式のモーター、接続されたロープ、海面上を攻撃する方法によって、遅くて取り回しのきかない兵器になっていた。ホワイトヘッドはすぐには改善できなかったが、検討を続け、やがて圧縮空気により水中を自ら進むよう設計された管状の装置、Minenschiff (機雷船の意) を開発した。これによって初の自航式魚雷が完成し、1866年12月21日に開かれたオーストリア帝国海軍の委員会で公式に発表された。初期には適切な深度を保つことが非常に難しかったが、ホワイトヘッドは1868年にPendulum-and-hydrostat_control という、振り子と水平舵により魚雷が適切な深度になるように調整する制御方法を開発し、克服した。オーストリア政府がその発明に投資することを正式に決定した後、ホワイトヘッドはフィウーメに最初の魚雷工場を設け、1870年には、最大約1,000ヤード (910 m)、6ノット (11 km/h) になるまで改善し、1881年までに国外10カ国に輸出された。魚雷は圧縮空気を動力源とし、ニトロセルロースを爆薬として充填していた。ホワイトヘッドは効率化をすすめ、1876年に18ノット (33km/h)、1886年には24ノット (44km/h) 、1890年には30ノット (56km/h) のデモンストレーションを行うまでになった。

世界で初めて航洋艦から航洋艦に対して魚雷が使用されたのは1877年5月29日17時14分、イギリス海軍機帆走巡洋艦「シャー」からペルー海軍(反乱軍が使用)砲艦ワスカル」への雷撃であるが、これは命中はしなかった[4]

またこの魚雷は露土戦争の戦闘で試用され、1878年1月16日にオスマン帝国汽船「インティバー (Intibah)」は、ロシア帝国海軍の水雷艇が装備したホワイトヘッド魚雷によって撃沈された[5][注釈 2]。これは史上初の自航式魚雷による戦果であった[6]
水雷艇

魚雷は、大砲と比べ小型な発射機で運用できる上、砲弾よりも多くの火薬を搭載して目標にぶつけることができるので、モーターボートのような船でも大型戦艦を撃沈する能力をもっていた。そのため魚雷が実用化された1870年代には魚雷を搭載した小型艇として水雷艇が開発された。水雷艇は大型艦に肉薄し、魚雷による攻撃を行った。水雷艇を駆逐し大型艦を守るために駆逐艦(水雷艇駆逐艦)が開発されたが、魚雷が駆逐艦の主兵装の一つだったため、駆逐艦が水雷艇の役割も果たすようになった。日本では、水雷艇が、より大型化し外洋航行能力を獲得した駆逐艦と、沿岸海域での運用に特化し小型化・高速化を追求した魚雷艇に分化したと捉えられている。さらに潜水艦による水中からの魚雷攻撃や航空機から投下される魚雷(航空魚雷)も第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになった。

第二次大戦中の魚雷は、日本軍の酸素魚雷のように二重反転スクリューで推進されるものが多い。回転軸が同じで前後に重なった二つのスクリューが逆方向に回転してトルクを打ち消すことにより、本体の回転による推進力の低下を防いで効率よく前進する方式である。
日本海軍と魚雷遊就館に展示されている回天一型大和ミュージアムに展示されている九五式魚雷

日清戦争での水雷艇による威海衛夜襲の戦果と、日露戦争日本海海戦夜戦における水雷艇と駆逐艦の活躍により、日本海軍は魚雷の有用性に注目して高性能な魚雷の開発に力を注いだ。

1933年(昭和8年)に日本海軍は酸素魚雷を開発・実用化し、第二次世界大戦において使用していた。レーダーが一般化するまで日本海軍は夜戦を得意としており、水雷戦隊によって敵に大きな損害を与え続けた。アメリカ海軍重巡洋艦が魚雷発射管を廃止していたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は多数の魚雷発射管を装備していたことにも、日本海軍の雷撃戦重視がうかがえる。大戦中に日本軍が使用した酸素魚雷は、米軍の魚雷に比べて炸薬量、射程の点で優位にあった。また航跡がほとんど発生しないので、夜間はもちろん昼間であっても視認が困難であったという。戦後に「long lance(長槍)」と呼ばれた。

高速の航空機からでも投下できる本格的な航空魚雷を世界に先駆けて実現したのは、日本海軍の九一式魚雷だった。この魚雷は2点の特徴をもっていた。

1936年から、木製空中姿勢安定板の「框板」を尾部に装着した(九一式航空魚雷改1)。

1941年から、ローリングを安定制御する角加速度制御安定器を備えた(九一式航空魚雷改2)。この安定器は航空魚雷にとって最大のブレークスルーだった。

これらによって、九一式魚雷は高度 20m、速度 333km/h でも、海底の浅い港湾で魚雷を発射できるようになっただけでなく、波立つ海でも発射できるようになった。1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、15発以上の九一式魚雷を命中させたと報告している。歴史的に、航空魚雷は巡航ミサイルの前身といえる[7][8]

日本海軍の攻撃機では、飛行場など敵の基地の攻撃には大型爆弾を、敵艦隊の攻撃には主に魚雷を利用していた。ミッドウェー海戦では、南雲艦隊空母が攻撃機に敵基地攻撃用の爆弾を搭載していた途中で敵艦隊を発見し、魚雷に積み替えているところを敵機に襲われて格納庫内の爆弾と魚雷が誘爆した[注釈 3]。これによって日本海軍は空母4隻を失い、戦局が逆転するきっかけとなった。なお、この時に命中したのは爆弾だけであり、魚雷の命中は1発もない。

第二次世界大戦末期には、大型魚雷に操縦席を設けて人間が誘導し、敵艦船に搭乗員ごと体当たり攻撃する人間魚雷回天」という特攻兵器も開発された。イタリアでも人間が搭乗する魚雷が作られたが、こちらは弾頭を目標とする艦の底に設置した後に搭乗者が脱出するという運用法であり、人間魚雷の名前はついていても戦死を前提とする特攻兵器ではない。

なお、試験的に装甲の少ない艦底で爆発するように、凧揚げのように浮きを引っ張り、浮きが敵艦の側面に接触した時に艦底の下で起爆する構造の魚雷も考案された。機関として電気モーターしか使用できず、速度が30ノットに制限され、射程も短かったので、実戦では試験的に使用されただけであったが、戦果はあげている。
アメリカ海軍と魚雷

アメリカ海軍が第二次世界大戦時に使用したMk13Mk14Mk15魚雷は当初性能が悪く、命中しても爆発しないことがたびたびあった。海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸」は、1943年7月24日に米潜水艦「ティノサ」から12発の雷撃を受けたが、うち10発が不発であり、船体両舷に不発魚雷10発が突き刺さったままトラック島に曳航されてきた。その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから「花魁船」と言われた。また、潜水艦「タリビー」「タング」のように舵の故障により発射した魚雷が潜水艦自身に命中して沈没するという悲劇も生じた。しかし、大戦末期になるとアメリカ軍はこれらの欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力をもつHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えた。

こうした通商破壊以外に、アメリカ海軍はトラック島空襲レイテ沖海戦坊ノ岬沖海戦などで雷撃を行い、多数の日本艦艇・船舶を撃沈した。

Mk24機雷など音響誘導式の魚雷も実用化された。また電波を使用する誘導魚雷も開発されたが、ナチスの妨害電波により命中率は低かった。
第二次世界大戦後

魚雷は砲弾や後に登場する対艦ミサイルに比べて推進速度が遅く、無誘導魚雷を遠距離から発射すると命中確率が著しく下がるため、可能な限り近距離から発射する必要があった。しかし、第二次世界大戦中に登場したレーダーにより艦船や航空機を遠距離から発見することが容易になり、艦艇の防空火力と対水上砲撃精度が向上した。これらの進歩は隠れる遮蔽物がない外洋において雷撃機や水雷艇、駆逐艦の魚雷の実用発射距離内への接近を困難なものとし、雷撃機と水雷艇の消滅および駆逐艦における対水上艦攻撃用の重魚雷発射管の撤去につながった。さらに魚雷より高速・長射程の対艦ミサイルの実用化により、沿岸地域での運用を前提とする魚雷艇もミサイル艇に取って代わられ、水上艦艇の対艦攻撃手段としてはほとんど用いられなくなった。現在では魚雷を主兵装とするのは潜水艦のみであり、水上艦や航空機に搭載される魚雷は対潜水艦用の誘導魚雷が主流を占めている。

フォークランド紛争で1982年5月2日にイギリス海軍原子力潜水艦コンカラー」がアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」をマーク8魚雷で撃沈した。これは2018年時点において原子力潜水艦から発射された魚雷によって撃沈した唯一の例である。この時に使用されたマーク8魚雷は第二次世界大戦時に開発された魚雷で、ホーミング装置が装備されていなかった[9]


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