フレイザーは進化主義的な解釈を行い、宗教は劣った呪術から進歩したものであるという解釈を行った。一方、エミール・デュルケームはこれを批判的に継承し、本来集団的な現象である宗教的現象が個人において現れる場合、呪術という形で現れることを指摘した。さらにマリノフフスキーは、機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているいうことを指摘し、また動機をもった操作的な態度から人に禍をもたらすそうとする呪術を「黒呪術 black magic」といい、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を「白呪術white magic」とした。しかし超自然的なものである呪術だとしても、意図的なものと非意図的なものがあるとして、エヴァンズ=プリチャードは前者を邪術、後者を妖術として区別する必要性を主張した。
ビーティ(J.Beattie)は、呪術を象徴的な願望の表現とした。
レヴィ=ストロースによる指摘
クロード・レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした[15]。
「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘し、それまでの自文化中心主義的な説明を根底から批判した。
邪術と妖術詳細は「邪術」および「妖術」を参照
エヴァンズ・プリチャードによる南スーダンのアザンデ族の研究以来、社会人類学では邪術 (sorcery) と妖術 (witchcraft) とを区別するようになった。
邪術は、英語の sorcery に対応する日本語の文化人類学用語であり、呪術信仰において超自然的な作用を有すると信じられる呪文や所作、何らかの物を用いて意図的に他者に危害を加えようとする技術を指す。ただし、防衛のために行われる呪術を邪術に含める場合もあるので、邪な意図によるものばかりではない[16]。
妖術とは、学問的には、文化人類学で定義されるウィッチクラフト(witchcraft)のこと。エヴァンズ・プリチャードは、アフリカのアザンデ人の研究において、ザンデ語において「人間が意図していなくても危害を加えてしまう力」として使われているマングの訳語としてwitchcraftという造語を用い、日本ではその訳語として妖術が定着した[17]。 呪術では、何らかの経験則に沿って呪術の様式が体系化されており、これが民族間の交流で他文化に影響を与えることも多い。これらの民俗学的調査により、民族間の交流や移動の経路などが判明することもある。また考古学的な観点からは、過去の遺物より呪術の様式を解明し、当時の文化や交易の経路を追跡して調査することも行われている。 呪術には特定の呪術道具があり、狩猟具や漁具を使用する場合もある。ギリシア文明や日本、東南アジアなどでは弓矢が神や神の力が宿る神聖なものと考えられ、呪術の道具として使用された。狩猟民族の社会において弓矢は世界的に普遍的な、呪術の道具であったと考えられている。これは、弓矢が敵対する社会集団との戦いに用いられたことも大きく起因する。 日本においては漁具の釣針や銛、弓矢の矢も「サチ」とよばれるマナであるとされ、サツヤ(獲矢と書かれる)とよばれて信仰され、後、銃による狩猟が出て後も、獲物に当たった弾丸を鋳直(いなお)して持つ「シャチダマ」という習慣があった。
調査研究
世界の呪術文化
呪術道具