人類学や宗教学の用語では呪術という[4]。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある[5]。 英語の magic[* 2] は「魔法」、「魔術」、「呪術」と翻訳される[6]。近代日本において、訳語を創出する必要があった「文化」などの概念と異なり、magic は従来の日本語の語彙で対応しうる言葉であった[8]。魔法は古くからある日本語であり、幕末に刊行された『和英語林集成』初版(慶応3年(1867年))の英和の部では magic に「魔法」・「飯綱」・「妖術」が当てられ、同じく和英の部では「魔法」や「魔術」に magic arts, sorcery 等が当てられた[9]。 宗教人類学の分野では、この訳語として呪術が定着している[10][* 3]。一方、思想史[12]や西洋史の文脈では魔術の語が用いられることが多い[13]。魔術は西洋神秘思想の一分野の呼称としても用いられる[4]。 人類学者ジェームズ・フレイザーは、『金枝篇』において、文化進化主義の観点から[14]、呪術と宗教を切り分け、呪術には行為と結果の因果関係や観念の合理的体系が存在し、呪術を宗教ではなく科学の前段階として捉えた。しばしば依存的態度が強い宗教に対し、因果律に基づく操作的な態度をもつ点を差異として捉える。 フレイザーは、呪術を「類感呪術(または模倣呪術)」と「感染呪術」に大別した。 フレイザーは進化主義的な解釈を行い、宗教は劣った呪術から進歩したものであるという解釈を行った。一方、エミール・デュルケームはこれを批判的に継承し、本来集団的な現象である宗教的現象が個人において現れる場合、呪術という形で現れることを指摘した。さらにマリノフフスキーは、機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているいうことを指摘し、また動機をもった操作的な態度から人に禍をもたらすそうとする呪術を「黒呪術 black magic」といい、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を「白呪術white magic」とした。しかし超自然的なものである呪術だとしても、意図的なものと非意図的なものがあるとして、エヴァンズ=プリチャードは前者を邪術、後者を妖術として区別する必要性を主張した。 クロード・レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした[15]。 「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘し、それまでの自文化中心主義的な説明を根底から批判した。 エヴァンズ・プリチャードによる南スーダンのアザンデ族の研究以来、社会人類学では邪術 (sorcery) と妖術 (witchcraft) とを区別するようになった。
訳語としての「呪術・魔術・魔法」と文脈に応じたその用法
呪術研究
理論と学説『金枝』(J.M.W. Turner)、アイネイアス神話の一場面。『金枝篇』の口絵として用いられた。
フレイザーの理論
類感呪術(模倣呪術、英: imitative magic)
類似の原理に基づく呪術である。求める結果を模倣する行為により目的を達成しようとする呪術などがこれに含まれる。雨乞いのために水をまいたり、太鼓を叩くなどして、自然現象を模倣する形式をとる。
感染呪術(英: contagious magic)
接触の原理に基づく呪術である。狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍るとするような行為や、日本での藁人形に釘を打ち込む呪術などがこれに含まれる。感染呪術には、類感呪術を含んだものも存在するとフレイザーは述べている。呪術を行使したい対象が接触していた物や、爪・髪の毛など身体の一部だった物に対し、類感呪術を施すような場合などである。
ビーティ(J.Beattie)は、呪術を象徴的な願望の表現とした。
レヴィ=ストロースによる指摘
邪術と妖術詳細は「邪術」および「妖術」を参照