魏火曜
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1948年6月1日に荘長恭が学長に交代となると、罷免を受けて離職した杜聰明の医学部長復帰を求めるが、陳礼節[1]が医学部長留任となる。前任学長の傅斯年が病没して1951年2月に銭思亮が学長となったが、再び医学部方針をめぐって杜聰明との間で対立が起こり、1953年に杜聡明が辞職。それに伴い、魏火曜は医学部付属病院院長に任命された。1956年より同大学看護学部主任を兼任。1966年から1967年には第2代高雄医学大学学長(1966年10月?1967年6月)[2]。1968年、中華民国中央研究院第7期院士(生命科学組)に選出。1972年に閻振興が学長に就任すると、医学部付属病院院長から教務長へ転任となり、1979年に定年退職するまでその職をつとめた。

退職後も、1990年から死去する1995年まで中華血液基金会会長を務めるなど社会に貢献した[3]
家族・親族

父:魏清徳
[4]

妻:顔碧霞。実業家顔国年の娘。

長男:魏清徳は記者、作家、翻訳家。

脚注^ 陳礼節は杜聰明の後輩にあたり、杜聰明と同じく京都帝国大学にも留学した医師である。
^ 杜聰明が創設した医学大学で、創設から学長であった杜聰明が死去したことから学長に就任。
^ 中華血液基金会(役員)
^「先生世家:魏篤生、魏清コ、魏清壬、魏火曜」開幕茶会(人文芸術新聞)


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