魏志倭人伝
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皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。

正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの?との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。

正始8年(247年)、新太守の王?が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。

女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭の女王が通訳を重ねて朝貢したともあるので、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
倭人のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
邪馬台国までの行程と倭国の様子

「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、遼東郡太守公孫康が現ソウル付近に設置した帯方郡を介して朝貢を行い、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

帯方郡から倭に至る行程について、魏志韓伝(『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝)は、帯方郡の南方のの位置と境界に関して、

韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。

韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。方四千里ばかり。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。

と述べ、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接しているという。

『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は、三韓の位置関係をより具体的に、

馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與?貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。

馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は?貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。

と述べ、「韓」の西部に馬韓、東部の北部に辰韓、南部に弁辰(辰韓)があるとする。馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも「韓」は南で「倭」と接しているとしている。後漢献帝建安年間に創設された帯方郡は、認識されていないと見える。
邪馬台国までの国と行程

官名等には諸説がある。 魏志倭人伝の原文(中華書局本)の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。

原文日本語訳
倭人在帶方東南大海之中、依山?爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。
從郡至倭、循海岸水行、?韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。郡(帯方郡)から倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到着する。(帯方郡から隔たること)七千余里。
始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶?、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ。彦か)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり。夷守・火守か)と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に至る。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に到着する。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。
東南至奴國百里。官曰?馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里で至る。官を?馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里で至る。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。
南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳?。可七萬餘戸。南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳?(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。

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