鬱陵島
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1618年元和4年)5月16日、江戸幕府鳥取藩池田光政(松平新太郎)にあてて伯耆国米子(現、鳥取県 米子市)の商人、大谷・村川の両氏に対し、鬱陵島(当時、竹島)への渡海免許をあたえ、将軍家の家紋を打ち出した船印を立てることを許可した[16]。幕府はまた鬱陵島で林業や漁猟を行う許可も与えていた[17]。これは、両商人が鬱陵島の独占的経営を幕府公認でおこなっていたことを意味する[16]
竹島一件詳細は「竹島一件」を参照

上述のように、隠岐の漁師などが空島であった鬱陵島へおもむいて海産物や竹などを採取し、これを独占的に米子商人が取引することは幕府によって認められていた。このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行し、幕府が李氏朝鮮に対し抗議した。これに対し朝鮮は歴史的に自国領であるとして反発した。

この後、日朝間で長期間論争が続いたが、1697年元禄10年)1月、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉は、日本人の鬱陵島への出漁を禁じる措置をとり、その旨を李氏朝鮮に伝えた。こうして、日本の漁師たちが幕府の許可を得て鬱陵島に渡航することはなくなった。
春官志の記録

1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。
ヨーロッパ人による「発見」「竹島外一島」も参照

1787年フランスの探検家ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローが鬱陵島に到着して、乗船するブッソール号の天文観測士ジョセフ・ルポート・ダジュレー(Joseph Lepaute Dagelet)にちなんで「ダジュレー(Dagelet)島」と名付けた[18]。また1864年にフランス海軍省海図局が地図を作製する際に、付属島の竹嶼を「ブッソール島」と命名した。

1789年にはイギリスの探検家ジェイムズ・コルネット(英語版)も対馬海峡から日本海に入り、その後、北上して鬱陵島を「発見」したが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と命名した[18]。しかし、コルネットが測定した鬱陵島の経緯度には測量ミスにより実際の位置とのズレがあったため、その後、ヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島の北西に別の島があるかのように記載されることとなった[18][注釈 1]。そのため、1840年頃から、西洋や日本では島名の混乱により鬱陵島を「ダジュレー島/松島」と呼んでいた。Stieler's Hand Atlas(ドイツ)による1872年発行の地図の「松島」「リアンクール岩礁」部分の切り抜き
近代

李氏朝鮮は長期間鬱陵島に対し無人政策をとっていたが渡島するものが後をたたなかった。日本人も同様で1882年から1898年には既に居住して伐木に従事する日本人が多くあった。[19]
空島政策の終了と日本人の帰国

1879年頃、京都の寺院建築のために、東京の大倉組(大倉喜八郎)が槻(ケヤキ)を伐採。

1881年、鬱陵島捜討により、日本人7名による伐木が確認される。[20]

同年、朝鮮政府は日本政府に対し「鬱陵島渡海禁止」を要求[21]


1882年6月、国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止した。[20]

1883年、日本政府はこの要求を受け入れて日本人に強制帰国を命じた。[21][注釈 2]

同年10月14日、越後丸にて日本人255人(復命書の県別人数に一致せず)が帰国。このとき、在住朝鮮人は60名で帰国を惜しみ見送る者もいた。[22]


定住へ

朝鮮人は主に農業を営み、日本人は製材業や漁業を営んだ。定期的に入港する和船で米などが輸入され島で収穫した大豆との物々交換を通じて[23]両者は交易した。

1881年、江原道から朝鮮人 4 名(裴季周(はいきしゅう)、金大木、卜敬云、田士日)が渡島し農耕を営む。[24]

1883年4月、朝鮮人の入居を開始する[20]。第一陣は30余名であった[24]

1892年、隠岐から日本人の脇田庄太郎が渡航し、製材のため仮小屋を構え定住する。[23]

1895年、裴季周が鬱陵島の島監に任命される。

ロシアへの伐木特許

1896年8月28日、帝政ロシアは朝鮮政府とのあいだに「露人ブリーネル茂山及鬱陵島山林伐採並植付に関する約定書」を結び、鬱陵島の森林伐採と植栽に関する特許をユーリ・イワノヴィチ・ブリーネル(ロシア語版)が設立した「朝鮮木商会社」に与えた[25]

1898年10月中に、その特許がロシア枢密顧問官アポロジェフに譲渡されていた(1899年8月に在韓公使が確認し外務省に報告)。


1899年6月、ロシアは学者と兵士を鬱陵島に派遣し日本人が伐木に従事しているのを発見し、8/7日本政府に抗議した[26]

同年8月11日、在韓公使は鉄道枕木用としてロシアが得た伐木特許について、鬱陵島の白檀など全ての良材に対しても適用されるのは承知できないとして朝鮮政府に問いただした。[27]

同年8月27日、日本外務省は伐木の禁止・退去を命じる為、軍艦摩耶を鬱陵島に派遣するが悪天候により断念、勧告含め海軍省に全て委任することを検討[27]

同年8月30日、外務省より島根県、鳥取県両知事に対して欝陵島での伐木を禁止し取締るよう通達。また退去勧告は軍でなく外務官吏を特派することを通達。

同年9月25日、軍艦摩耶により欝陵島視察。同地組長と称する島根県人天野源蔵と1名に聴取。艦長による報告書によれば、朝鮮人戸数は500人で人口約2,000人、日本人は約100名で5?6月までは150名といい季節により変動があったことがわかる。その他村落の位置や名前、戸数が記録されている[27]。朝鮮人は農業を主として漁業を営むものは少数であった。島の監督は朝鮮半島から巡視役として派遣されており、前任者は島民の恨みをかい殴殺されたという。船の往来は朝鮮船が竹辺付近より時折くるのみで定期船はなく、一方で日本人は和船を使って多い時で年に三回往復(大抵は三月、五月、九月に出航)していた。日本人の主な職業は木材の輸出で松と槻(けやき)のみで、朝鮮人が焼畑のため伐木を焼却していたのを説得して伐木に着手したのが始まり。監督に税をおさめており、また多少の雑貨や米の取引により朝鮮人に喜ばれていた。

同年10月4日、日本政府の11月30日を期限とする欝陵島からの退去命令に関して、通行不便なため退去もその確認も難しいことを在韓領事は吐露している。

実際に1905年頃までに朝鮮人の戸数は400 - 500を数えるまでに増えており、以前として日本人も300戸程度居住していたことから、強制退去の実効性は不確実なものだった。[28]

また同年11月8日、今回の強制退去は伐木を禁止させるのが目的であり、これを前例として韓国政府が在韓邦人のみに対して強制退去を命じることがあれば公平ではなく相互の条約に基づく義務を要求するよう在韓領事は外務大臣に上申している[27]


日本人在留者による共同体の結成

1897年4月、日商組合会を組織する。[29]

1901年7月、人口増加により不安定になった治安維持のために「日商組合規則」を制定し取締り。[29]

1901年1月、日商組合会内の内部対立事件が発生し、日本政府は同年4月に釜山居留地警察署から警部以下巡査 3 名を派遣し、警察官駐在所を設置した。[29]

1902年5月末、79戸548人(うち男422人)の日本人が在留。[30]

1902年6月、外務省の釜山理事庁の認可のもと日本人による自治の共同体結成。「日商組合規則」のもと鬱陵島島司をリーダーに島内にて集団生活。[31]

1907年末、日商組合会は廃止して日本人会(会員450名)が結成された。[32]


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