高麗人
[Wikipedia|▼Menu]
1919年に、ウラジオストクの新韓村(英語版)(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが三・一運動を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、1920年4月4日には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した[6]

ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。

1922年に、ロシア内戦で勝利したボリシェヴィキは1922年ソビエト連邦を樹立。日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、1923年に106,817人にまで増加し、翌1924年からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制するための対策が取られるようになった。日ソ基本条約1925年)により両国は国交を樹立したものの互いを仮想敵国とみなして警戒心を解かず、かつては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は、1931年に閉鎖されることとなった。
強制移住「ソビエト連邦における朝鮮人の強制移住」も参照

同1931年に満洲事変を起こした日本陸軍は半年で満州全土を制圧し、1932年3月1日には満洲国を建国した。ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、沿海州に居住する高麗人住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになった。実際、満ソ間の国境不確定地帯において、長年にわたり日ソ双方によりスパイ戦が行われていた[7]。また、満州において抗日戦を展開しようとしていた中国共産党との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイ活動の恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。スターリンの下で大粛清が開始されると、高麗人のスパイ活動への関与の疑いが高まり、高麗人のほとんどは日本側の活動とは無関係であったにもかかわらず、ニコライ・エジョフの報告によると1937年10月25日までに沿海州に居住していた36,442家族171,781人の高麗人が、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放されたと記録されている[8]

強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は農耕には不向きで、ソ連政府によって保障されていたはずの資金援助は受けることができなかったことに加え、移住させられた者のほとんどが稲作農家や漁師だったこともあって、乾燥地帯への適応に困難を伴った[4]1938年までに少なくとも4万人の高麗人が死亡している[8]。スターリン政権は、密約を結んで東欧を分割したナチス・ドイツへも猜疑心を募らせ、独ソ戦中にかけてソ連西部の少数民族(ヴォルガ・ドイツ人チェチェン人クリミア・タタール人)も中央アジアへ追放した。高麗人は彼らと協力し合いながら、灌漑施設を設置するなどの工夫を重ねたうえで稲作を始め、移住から3年後には不毛の大地を一大農業地帯に変えることに成功した。その姿勢が評価され、ソ連共産党から模範的社会主義者(労働英雄)として表彰される者もあった。

独ソ戦には372人の高麗人が参加し、そのうち195人が死亡または行方不明となった[9]。多くの高麗人は兵士や下士官として参加し、63人が下級将校、13人が上級将校であった[10]。将校のうち、3人が連隊長、5人が大隊長、8人が中隊長、14人が小隊長の地位にいた[11]

戦後、南北朝鮮の分断と朝鮮戦争中華人民共和国の建国によって、極東は東西冷戦の前線となった。軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って来ることによって、不安定要素が生ずることを望まないソ連当局の意向によって、高麗人は沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。また、グラスノスチが始まるまでは、強制移住に対して発言することは許されなかった。
ソ連崩壊以降
ロシア

居住地への帰還を認める「ロシアの高麗人の名誉回復に関する法」が1993年に成立したが具体的な手続きはなく、帰還の手助けとはならなかった[12]。2002年の人口調査では、148,556人の高麗人がロシアに居住し、男性が75,835人、女性が 72,721人だった。そのうち、25%はシベリアと極東ロシアに居住している。同地の高麗人達はその移住経路が多様で、1937年の強制移住から帰って来たCIS諸国の国籍を保持した 33,000人以外にも、約4,000から12,000人の北朝鮮からの移住者も確認されている。大韓民国や中国少数民族出身の高麗人も定住し、投資を行うなど国境貿易に参加している。
ウクライナ

2001年の人口調査では、高麗人を自称する者が12,711人存在しているという結果が出たが、これは1989年の8,669人より大幅に増加している。特に人口が多い都市はハルキウキーウオデッサムィコラーイウチェルカースィリヴィウルハーンシクドネツィクドニプロペトロウシクザポリージャクリミア半島などである。ウクライナで一番規模が大きい高麗人コミュニティはハルキウにあり、約150人の高麗人家族が居住している。最初の朝鮮語学校が、1996年に開校している。
中央アジア

ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、1990年代末には1万5000人にまで達している。

同地域における高麗人は、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに居住している。カザフスタンにおける高麗人文化はかつての首都だったアルマトイを中心に発信されており、同都市では中央アジアでは唯一の朝鮮語新聞である『高麗日報』と朝鮮語劇場が運営されている。カザフスタンの人口調査では、1939年には96,500人、1959年には74,000人、1970年には81,600人、1989年には100,700人、1999年には99,700人の高麗人がそれぞれ記録されている。ウズベキスタンのサマルカンドにある高麗人墓地

ウズベキスタンの高麗人たちは、農村地域に広く散らばっている。同国では、高麗人たちが公用語であるウズベク語ではなくロシア語を常用しており、言葉の壁にぶつかるケースが続発することとなった。ウズベキスタンの独立後、多くの高麗人たちがウズベク語を話すことができないために、失業の憂き目に遭うこととなった。その一部は、極東ロシアに移住したが、そこでも生活の困難に直面することとなった。2017年現在ウズベキスタンでは18万人が居住し、約6万人が首都タシケントに集まっている[13]。強制移住から80年の節目である2017年、タシケントにあるソウル公園で記念碑が建てられた。この式典には韓国の首都であるソウル市の市長も参加した[13]

タジキスタンにも小規模ながら高麗人コミュニティがある。ウズベキスタンとカザフスタン以外の地域への移動を禁じる規制が緩和された1950年代後半から1960年代前半にかけて、高麗人たちの同地への大規模な移住が始まった。移住の引き金となったのは、豊富な天然資源と温暖な気候だった。同国における高麗人の人口は1959年に2,400人、1979年に11,000人 、1989年に13,000人にまで増加し、そのほとんどが首都のドゥシャンベに住み、少数ながらクルガン・テッパホジェンドにも居住する者もいた。他の中央アジア諸国の高麗人と同様に、タジキスタンの高麗人たちも他の民族より高い平均収入を誇る傾向があった。しかし、1992年5月に勃発したタジキスタン内戦により、多くの高麗人たちは同国を離れることとなり、その人口は1996年までに7年前の半分以下となる6,300人にまで減少した。内戦終了後の2000年にも、イスラム解放党のメンバーがドゥシャンベにある高麗人のキリスト教教会で爆弾テロ事件を起こし、9人が死亡、30人が重軽傷を負う事態となった。現在も同国に残っている高麗人のほとんどは、農業と小売業に従事している。
無国籍となった高麗人

ソビエト連邦の崩壊以降、一部の高麗人達は無国籍となった。ソ連時代に連邦だった国々が、ロシア国籍を認めなかったために、それぞれの国籍を再度申請しなければならなかった。これを知らなかった、書類の紛失、住民登録の失念、経済的な余裕の有無、パスポートの再申請の不可などの理由により無国籍者が存在している。この背景には、生まれ育った家庭が貧困だったため、教育など社会生活を送るうえで必要な情報を得られなかったという事情があり、このような不利益は彼らの子孫にまでそのまま受け継がれてしまっている。CISには現在、高麗人全体の10%にあたる約5万人の無国籍者がいることが推測されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef