高雄の歴史
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出土地層は牛稠子文化から大湖文化層にかけてであり、農業、漁業、狩猟を複合させた生活様式であったと推測されている[6]
左営旧城遺跡(400年から1300年前)

左営旧城遺跡は左営旧城南門の北側、半屏山西南端と蓮池潭西北岸の間に位置する遺跡。遺跡からは赤褐色的籠目紋、魚紋、方格紋などの土器のほか、左営貝塚と称される貝塚も発見されている。その文化は大湖文化類型及び清代の漢文化に属している。
龍泉寺遺跡(400年から2000年前)

龍泉寺遺跡は高雄寿山東側斜面の比較的に平坦な地域に位置し、高雄地区の先史文化の遺物が最も豊富に分布する遺跡である。龍泉寺遺跡は今から約400年から2000年前の蔦松文化に属している。多くの貝塚が分布しているのが特徴であり、「小渓貝塚」と総称されている[7]
平埔族?マカット族の時代(1624年以前)

今から約2000年から400年前、柴山は周囲を海に囲まれ、遠浅の地形を形成しており、当時の高雄地区にはマカット族が集落を形成していた。1944年に小川尚義[8]は、マカット族為シラヤ族の支族であり、平埔族に属していると発表した。原居は鳳山地方から淡水渓(高屏渓)流域であり、その部落は高雄一帯の山岳部及び河岸に分布し、柴山、覆鼎金、桃子園、打狗港一帯が主居住地であったが、後に屏東平原の山麓地帯(現在の屏東県新?郷内埔郷高樹郷一帯)、恒春退台東方面に進出したと述べている。『台湾府志』では「鳳山八社」の記述があり、マカット族の有力な集落として放索、阿猴、塔楼、加藤、武洛、力力、上淡水、下淡水の8社群の名称が記録されている。またこれらの居住地はパイワン族の居住地に隣接しているため、パイワン族との密接な交流があったものと考えられている。[9]

当時の高雄地区は潟湖が広がり豊富な魚介類が棲息したことから漁労採取による生活様式が誕生し、その不用物を廃棄、堆積したものが今日貝塚となって発見されている。貝塚からは動物骨格や貝殻以外に、多くの土器の破片が発掘されている。16世紀から17世紀になるとマカット族は中国や日本の倭寇の攻撃を受けるようになり、倭寇の侵入を防止するために住居の周囲に竹林を設けるようになった。竹林は防御以外に衣食住にも影響を与え、当時の高雄地区には竹林が広がっていた。その「竹林」を表す平埔語の「Takou」が?南語により「打狗」と翻訳され、それが高雄の旧称である打狗の由来となっている。
倭寇

明代の倭寇は活発に活動し、林道乾の後、万暦年間に水師は三度台湾に倭寇討伐軍を派遣している(1574年、1603年および1617年)。1603年(万暦31年)には沈有容将軍を派遣した際、従軍した陳第により『東番記』が表され、高雄を打狗嶼と初めて記録し、また当時の原住民の生活情況を記録している。
開墾と地方建設時期
オランダ統治時代(1624年 - 1661年)「オランダ統治時代の台湾」も参照

1624年天啓4年)、澎湖で明朝の水師に敗れたオランダ人は台湾に進出し東インド会社を組織し、台湾の統治を開始した。当時の打狗港は台湾南部の重要な漁港であり、オランダ人は打狗をTankoya、打狗港をTancoiaと称していた。オランダ宣教師ハリンタイが表した『オランダ貿易誌』の地図では打狗山を「猿山」(Ape Berg)と記録し、18世紀のヨーロッパの地図の中に散見することができる。オランダ統治時代の台湾は5つの会議区に分けられ、高雄地区は南部地方会議区に所属していた。1630年崇禎3年)、福建省が旱魃に見舞われると明朝の招撫を受けた鄭芝龍が福建巡撫熊文燦に対し福建より移民を台湾に入植させることを建議、これが台湾への漢人移民の嚆矢となった[10]
鄭氏政権時代(1661年 - 1683年)「鄭氏政権 (台湾)」も参照1662年、鄭成功とオランダ人の間に締結された条約

1661年永暦15年)、鄭成功がオランダ人を台湾より駆逐すると、台湾を東都と改称、承天府、天興県、万年県の一府二県を設置、軍屯制度を施行した。万年県県治は現在の高雄市左営区設置され、現在の高雄市、高雄県、屏東県及び台南県の一部地域を統括した。また当時の鄭成功軍が屯田した左営、前鎮、右昌、後勁、前鋒尾、右沖(現在の右昌)などの地名は現在でも使用されている[11]

1662年(永暦16年)、鄭成功が病没すると子の鄭経がその地位を継承した1664年(永暦18年)、鄭経は東都を東寧と改称し、天興、万年を州と改め承天府の所属に改めた1681年(永暦35年)に鄭経も病没、その地位は子の鄭克?により継承された。

1683年(永暦37年、康熙22年)、清朝は福建水師提督施琅に命じ台湾を攻撃、鄭克?は降伏し、鄭氏政権時代は終焉を迎えることとなった。
清朝統治時代(1683年 - 1895年)
康熙年間鳳山県旧城東門馬道入口

1683年康熙22年)、施琅により台湾が清朝版図に帰属するようになると、同年7月、台湾は福建省の所管となり、翌年には台湾府及び鳳山、台湾、諸羅の3県が設置された。鳳山県県治は興隆荘?子頭(左営旧城)に設置され、初代知県に楊芳声が着任すると、1684年(康熙23年)、楊芳声は興隆莊に文廟を建立し、1704年(康熙43年)には知県の宋永清により県公署及び崇聖祠を、1709年(康熙48年)には興隆里に学田90甲を設置し教育財源の確保を、翌年義学書院を文廟に隣接して建設、官学私学が盛んに行われるようになった。1719年(康熙58年)には『鳳山県志』が完成している。
行政区域『台湾府志』中の鳳山県治図

清朝は鄭氏政権時代の承天府を廃止し台湾府を設置、万年州を台湾県、鳳山の2県とし台湾府の管轄とした。鳳山県治は?仔頭に設置され、現在の高雄市地域は鳳山県の管轄となった。1887年光緒13年)に行政区域の改編が行われ、台湾は3府1直隸州3庁11県となったが、1894年(光緒20年)の日清戦争により清朝は台湾及び澎湖を日本に割譲するまで高雄地区は鳳山県の管轄とされた。
地方建設

道光年間に鳳山県知県に就任した曹謹は1837年道光17年)に鳳山県で発生した旱魃被害により、翌年から大規模な灌漑事業に着手した。清朝時代の台湾三大水利事業の一つに数えられる曹公?の工事は淡水渓(高屏渓)からの農業用水を灌漑するというものであり、曹謹の離任の際には群民が県城で送別し、灌漑施設に曹謹を記念し曹公?と命名、更に曹公祠(現在の曹公廟)を建立している。曹公?は現在も一部灌漑及び排水機能を有している[12]
打狗港1893年の打狗港地図

清朝による台湾統治が開始されると台南が行政の中心となった。高雄地区は台南に近く、また漁業、塩業、糖業、稲作が盛んであったため「南路米由打狗販運」と称されるようになった。打狗は漁港としての機能以外に、商業港としての機能も有し、清代中期以降に安平港が堆積物により大型船舶の入稿ができなくなると、打狗港の商業港としての役割はますます重要性を帯びるようになった。1855年咸豊5年)、アメリカの威廉安遜洋行が打狗港の建設を条件に通称特権を入手すると、4万5千両を投資し打狗港の近代化が図られ、国際貿易の開端が築かれた。

1860年(咸豊10年)、清朝は北京条約により淡水鶏籠安平打狗の4港の開港を迫られた。1863年(同治)に打狗は正式開港に開港し、翌年税関が開設、これに伴いイギリス領事官も淡水から高雄地区に移転している。詳細は「打狗港」および「打狗英国領事館」を参照
旗后地区

漢人が高雄地区に居住した最初の記録は1673年康熙12年)のものである。最初の移住者である徐阿華など十数家は次第に勢力を拡大し集落を形成するようになり、1691年(康熙30年)には一定規模の漢人集落となり、戸数も20戸を越え、媽祖宮(現在の旗后天后宮の前身)などを建立していた。1726年雍正4年)、オランダの宣教師が編纂した台湾の地図には旗后はHandelarrsと、旗后半島はSaracen Headとして出現している。1860年咸豊10年)に北京条約が締結されると、旗后地区は通商の要衝となり、同治2年には旗后税関分所が設置され、打狗港は国際商港として発展していくこととなる。旗后の通山里一帯は物資の集散場所となり、洋行や商店が並ぶ、当時の高雄地区で最も発展した商業区域となっていた。

電信方面では、牡丹社事件後に丁日昌が旗后を巡視し、光緒3年に電報要電線を95kmにわたって敷設すると同時に旗后分局を設置、台湾の電報局の最初となっている。
日本統治時代(1895年 - 1945年)

日本統治時代、高雄の開発は1899年台湾総督府民政長官であった後藤新平の台湾南部視察により開始された。1900年6月より日本政府は打狗港の調査を8ヶ月の歳月と7800円の経費をかけて実施、気象、地形、地質、潮流など各方面について詳細な資料を作成した。それをもとに日本は積極的に高雄建設を推進し、港湾整備以外に鉄道建設、都市計画などを実施、石油精製、機械、造船、コンクリート等の工業を誘致し、高雄は僅か50年足らずで台湾第二の都市に成長することとなった[13]


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