高雄の歴史
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1909年(明治42年)のバナナの生産量は僅か6.322tであったのが、1935年(昭和10年)になると117.30t、1967年には382.051tとなっておりその多くが輸出され、当時の貴重な外貨収入源となっていた,しかし1967年に黄葉病が発生すると台湾のバナナ産業は大きな被害を受けることとなった[39][40]
商業
堀江商圏

ベトナム戦争中(1964年?1969年)、塩?区の七賢三路塩?国小は高雄市の西門町と称された堀江商城が存在していた。堀江地区は日本統治時代に愛河に頭前、後璧の架渠が建設されたことに由来する。高雄港築港計画が実施されると後壁は埋め立てられたが、それに代わる排水施設が必要となり現在の七賢三路と瀬南中街付近に水路を掘削、塩?南北を連絡する小運河が開通し堀江称された。1938年に堀江町に商店街が誕生、国民政府時代になると堀江は暗渠化され大溝頂と称されるようになると、南部地区の住民が移住してくるようになった。戦後の混乱期で台湾では物資が欠乏しており、同時に政府による出国及び外貨制限を行った結果、一般の商店での輸入品の入手は困難となった。しかし堀江商城では高雄港に隣接し、そこに入港する船舶の船員が持ち込む商品が流入し、密輸品はが集中、台湾南部で有数の外国製品の集散地となった。その後大溝頂一帯(五福路から大公路一段)の違法建築の撤去が進むと、その地の商店が現在の商城に移転するなど商業地域として右割ったが、高雄市の行政中心が塩?から移転したことにより、大新百貨を中心とする堀江商圏から東の新興区の大統百貨及び新堀江購物中心を中心とする五福商圏へと移った。堀江商場は既に商業地としての活気は無く、また人口も減少し昔日の反映の面影が残る地域となっている[41]
地下街

1978年、台湾最初の地下街として高雄地下街が旧市政府に面して建設された。3層より構成され、敷地面積は3万坪、商業地として活気を失っていた塩?区の再開発の目玉として計画された。しかし1980年代より治安の悪化が振興し、1989年12月18日の火災により焼失すると、高雄市政府は地下街を取り壊し公園として再開発を行った[42]
大統、玉竹と新堀江商圏

1971年、大統百貨が高雄市新興区に開業すると、それを中心とした玉竹商圏及び新堀江商圏が形成された。しかし1995年の大統百貨の火災以降は大統商圏の集客力は減少し、それに伴い新堀江商場と玉竹街の衰退が始まった。新堀江商場は大統商圈に隣接することで集客力を維持し、元来は海外製品の販売を行っていた堀江商場が移転したものであり、商場には1から2坪の小規模店舗が集中している。新堀江商圏は高雄市政府の支援の下、周辺に映画館、三商百貨を整備しファッションや雑貨、飲食店などが並ぶ車両進入禁止ショッピングエリアとし再開発が行われた[43]
三鳳中街

三鳳中街は高雄市建国三路の北、縦貫線以南の地域に位置し、日本統治時代は三塊?と称される雑貨販売業者が密集する地域であった。台湾では除夕春節を迎える準備で買い物をする習慣があり、三鳳中街はこの時期にかなりの人出となり、台北市の迪化街と並び称されている。近年は量販店などの進出もあり三凰中街の人出も以前ほどで無くなり、これに対応すべく各商店による「三鳳商機促進会」が組織され、景観や各種ハードの整備を行い観光地区化されるための方策が採用されている。
工業
コンクリート業

コンクリート1867年頃に台湾に導入され、当初は紅毛土と称されていた。近代的なコンクリート産業は1910年5月、浅野セメント株式会社が台北府前街に台湾出張所を設立し小田耕治が所長として就任したことに始まる。小田は台湾での工場設置を目的に1912年(大正元年)にコンクリートの原料調査を行い、台南庁打狗山(現在の高雄寿山)に有望な石灰石を確認した。1917年、浅野セメント高雄工場が寿山東側に建設され、台湾最初のコンクリート向上として年間3万tの生産を開始した。

高雄地区で生産されるコンクリートは台湾のみならず福州廈門汕頭香港、南方地域へと輸出され、その需要に対応すべく1930年及び1943年に拡張工事を行い年間36万tの生産を達成した。

戦後国民政府により浅野セメントは接収され台湾水泥公司が成立した。しかし戦後の生産量は9万t[44]まで落ち込んでいた。生産増大を図る台泥公司は原料及び製品の輸送を目的に愛河沿いに鉄道を敷設するなどのインフラ整備を進めた。1954年から1974年までの20年間に、台泥公司が民営化された以外に永康、嘉新、建台、東南、啓信、亞洲、環球、正泰、信大、力霸、南華、欣欣、幸福の13企業がコンクリート製造業に参入、競争が激化するとともに、高雄地区での資源の枯渇を招いた。1991年、西部資源の枯渇を理由に政府はコンクリート産業の東部移転を決定し、高雄地区でのコンクリート業は終焉を迎えることとなった。
造船業

1937年6月、三菱重工業株式会社の投資により高雄に台湾船渠株式会社が設立され、高雄における造船業が開始された。戦後国民政府により台湾が接収された1946年5月、台湾船渠と同じく高雄の株式会社台湾鉄工所、東光興業株式会社が統合され台湾機械造船公司が成立した。1973年7月には中国造船公司が成立、小港区の臨海工業地域に十大建設の一つとして造船所の建設が開始され、1975年の工場落成と同時にアメリカからのタンカー造船を術羽している。1977年7月に中国造船公司は国営に改編され、2007年3月3日に台湾国際造船公司と改称され現在に至っている[45]
鉄鋼関連産業

高雄市は台湾における鉄鋼産業を初めとする工業の中心地域である。1900年、台南府より打狗までの鉄道の開通に伴い高雄地区の近代化が始まり、翌年、三井財閥が高雄県橋仔頭に近代的な製糖工場として台湾製糖株式会社を設立すると、その工場設備の維持修理の必要性から1912年に打狗鉄工所が設立され屋。また1940年には唐栄により台湾最初の民営の唐栄鐵工所が設立され、くず鉄を原料に電気炉による製鉄事業を開始、最盛期には唐栄鉄工所は全台湾の圧延鉄鋼の50%を郷っ給していた[46]

このように鉄鋼関連産業が萌芽した高雄地区であるが、太平洋戦争末期になると高雄港はアメリカ軍の爆撃対象となり大きな被害を受けた。1945年の終戦の際には高雄港内には178隻の船舶が沈没またが擱座していた。翌年よりこれらの船舶のドレージ作業が開始されると、高雄はこれらの船舶を材料とした製鉄業が隆盛を迎えた。1960年に高雄臨海工業区が設立されると、ドレージから製鉄までを一貫して生産する工場が完成、1973年には世界最大のドレージ量を記録した。

1975年、高雄港第二港湾が竣工、10万t以上の大型鉄鉱石運搬船の接岸が可能となり、高雄地区の製鉄産業成長の基礎が築かれた。1977年には中国鋼鉄公司による生産も開始され[47]、民間のくず鉄を利用した製鉄業者も、次第に輸入鉄鉱石を利用した大型製鉄所に変貌していく。大規模蹄鉄所としては盛余、Y興、Y隆などがあり、現在では内需対応から輸出中心の企業として各種製品を生産、台湾政府の支援もあり、高雄地区は台湾の鉄鋼都市として現在も活動している。
石油化学工業

1941年、太平洋戦争の勃発に伴う軍需に対応すべく後勁に石油精製工場を設置し、岡山の航空隊及び左営海軍本部への燃料供給を開始した。1944年には第六海軍燃料廠が設置され、現在の高雄煉油廠の前身となっている。

戦後、国民政府は高雄地区の建設事業の一つとして1946年に中国石油股?有限公司楠梓後勁地区に建設、石油化学工業の発展による台湾経済成長を企画した。1968年4月10日、中国石油は最初の精製プラントを建設、同年10月には高雄港拡張計画に伴い大林埔外洋にパイプラインを設置し、大型タンカーによる原油供給を可能とした。

1970年代より台湾政府は十大建設計画を推進、中国石油は林園に林園廠を増設し、石油化学工業に必要な原料供給の増産に着手した。1975年末には林園、仁大(仁武、大社)石油化学工業区が完成すると、石油化学工業は高雄地区の重要な産業に位置づけられるようになった。その規模はアジアでは日本に次ぐ規模となり、またプラスチックゴム工業など関連する工業分野の発展も見られた。1981年時、台湾の石油化学工業と関連工業の台湾輸出額に占める割合は16.4%となり、生産額は工業生産額の12%を占めた[48]
加工輸出区

加工輸出区構想は1960年代に登場した。当時の台湾政府は財源不足、外貨不足、高い失業率などの問題を抱えており、欧米や日本の加工業を誘致することでの経済発展を計画した。台湾政府は「外国人投資条例」、「華僑回国投資条例」、「奨励投資条例」など関係法令を整備、自由貿易区と工業区を兼ね具えた加工輸出区を高雄に設置した。設置後僅か2年で80社以上が進出、そのため1968年には楠梓加工輸出区の建設に着手1973年に完成している。この加工輸出区の成功は台湾における高度経済成長を創出した[49][50][51]

1987年より、新台湾ドル高と国際市場の変化があり、台湾における労働集約型の産業はその転換を迫られ、加工輸出区内の工場は多くが撤退、より労働力のやすい中国東南アジアへと移転していった。また1990年代からは台湾内の工場では大量の外国人女性労働者を雇用し、台湾人に代わって生産に従事するようになってきている。
肥料工業

高雄地区の肥料工業の基礎は日本統治時代に建設された硫安工場に始まる。戦後は台湾省高雄硫酸?公司及び台湾肥料股?有限公司が設立され、本格的な肥料の生産が開始された。その内硫酸?公司は漢陽の兵工廠が解体移設されたものであり、旧高雄鉄工所跡地に台湾最初の肥料工場として無水窒素、硫酸硫安等を製造、台湾の農業発展に大きく寄与し、当時は台湾?業公司とならぶ規模であった。しかし時代と共に産業構造も変化し、硫酸?公司の経営赤字が増大、また設備も老朽化したことより高雄市に新工場を建設し移転、旧工場跡地は大型ショッピングモールとして再開発された[52][53]
文化芸術

高雄地区は元来文化活動は限定的なものであり、以前は「文化砂漠」と形容されることもあった。しかし近年高雄地方政府及び各芸術団体の努力により、1980年代に建設された中正文化中心を初め、美術館、科学工芸博物館などの大型施設が整備されつつある。

高雄市立図書館は日本統治時代の「高雄州立民衆教育館」に由来し、1954年5月の新館落成に伴い現在の名称に改称されている。高雄市議会は1995年に文化局設置を議決、2003年に高雄市政府文化局が正式成立しると、それまで教育局が所管していた文化施設が文化局により運営されることとなり、文化都市としての都市建設が進められている。
文学


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