高雄の歴史
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結果は特別法廷の8名は全員有罪となり、施明徳が無期懲役、黄信介が懲役14年、その他6人が懲役12年となった[23]
高雄陳氏詳細は「高雄陳家」を参照

高雄陳氏は高雄地区の有力一族である。高雄陳氏の基礎を築いたのは陳中和(1853年?1930年)であり、清代から日本統治時代にかけて高雄地区で企業家・経営者として成功した。1904年当時、陳中和は日本の「米糖王国」政策に応じ、初めての台湾資本による「新興製糖」を設立した。1923年には「陳中和物産株式会社」を設立し、農産物種苗販売、不動産賃貸、精米関連事業、会が院貿易やその他投資事業を行い台湾南部で重要な経済的地位を獲得した。

高雄陳氏は高雄政界にも相当な影響力を及ぼし、陳中和以外に陳啓川、陳啓清、陳田錨などが市政に参与している。また高雄医学院が創立される際には陳氏による寄付が行われ、その校舎の一棟は「啓川楼」と命名されている。陳啓川在は日本統治時代に州議員に選出され、国民政府時代になると1960年から2期にわたって高雄市長を務めている[24]。このほか高雄市議会の前議長である陳田錨もまた高雄陳氏出身の政治家であり、合計5期(22年2ヶ月)にわたって議長を務めると共に、8期(32年1ヶ月8日)の長期にわたって議員を務め、高雄議会の中で最長期間の記録を有している[25]

高雄陳家以外に高雄市の有力一族としては王氏(王玉雲、王志雄、王世雄)、朱氏(朱安雄)、黄氏(?啓川)等がある。
高雄県の政界

第1回高雄県長選挙の際に国民党から立候補した洪栄華、無所属で立候補した陳新安、高雄区水利会の主任委員であった余登発の3派閥が存在した。陳新安は第1回投票で最多得票数を獲得したが、当時の選挙規程では候補者は50%以上の得票により当選と規定されており、第2回投票では余登発陣営の支援を受けたが、2000票差で洪栄華に敗北した。この選挙結果により洪栄華支持者を紅派(洪派)、陳新安支持者を白派と称し二大勢力となり政争を繰り広げた。更に1960年の第4回高雄県長選挙で余登発が当選すると、余登発支持者は黒派と称され、高雄県では三大勢力による政局運営が行われるようになった[26][27]第14回県長選挙までに紅派が3回、白派が4回、黒派が7回の当選となっている。
経済の発展
瓦窯

台湾における民間建築は伝統的に紅瓦を用いていた。清朝統治時代は唐山より紅瓦を台湾に輸入していたが、清末になり台湾の人口が急増すると台湾で瓦窯が行われるようになった。台湾南部の瓦窯の大部分は台南県六甲鎮、高雄県旗山鎮渓洲、大樹郷大樹、竹寮両村に分布していた。最盛期人は大樹郷の瓦窯は20か所を越え、生産される紅瓦などの建築資材は高雄、澎湖、屏東、台南に供給されていた。しかし建築工法の変化や新しい建築材料の登場により紅瓦窯は次第に衰退していき、現在瓦窯は僅かに高屏旧鉄橋北側の三和瓦窯の3か所となり、生産される紅瓦も台湾の古跡修復用に主に用いられている[28]
製塩業

高雄の塩田の歴史は鄭氏政権の時代まで溯る事ができる。古くは台湾の塩は中国商人により大陸より輸入されていたが、1661年に鄭氏政権が台湾で成立すると、清朝が台湾に対する経済封鎖を実施し塩の供給が停止する事態となった。参軍の陳永華は台南瀬口地区に海水を引き込み製塩事業を開始し、これが台湾における製塩業の始まりとなった。その後今日の台南県永康市と高雄市塩?区に洲仔尾塩田と打狗塩田が設置され、民間での製塩業が行われるようになった。清と異なり塩の専売制は採用されず、官衙は塩田の面積により塩?税を徴収していたため生産量が増大、当時の瀬口塩田、洲子尾塩田、打狗塩田は台湾三大古塩田と称されていた。1895年に日本に割譲されるまでの170年間に高雄地区には瀬西場(弥陀塩田)、瀬東場(大林浦塩田)が設けられ、日本統治時代には更に北門中洲、?寮、高雄塩田等が設けられた。

日本統治時代後期は、台湾総督府により1930年代より製塩工業の近代化を図り、日本資本を導入しての台南四草、布袋新?、高雄竹滬、七股台区、中寮、頂山、後港などの新式塩田が建設され、また台湾製塩株式会社が台湾人の所有する塩田を購入し大規模化を進めた。これにより台湾の製塩業は民間の小規模生産から台湾製塩、南日本塩業、鐘淵曹達の三社による寡占状態となった。

1945年、終戦により国民政府が台湾を接収した際に日本資本の塩田や製塩会社も接収された。1947年3月12日に塩政条例が公布され本格的な国民政府による製塩事業が開始された。しかし新たに設立された台塩公司は気象条件の制限を受け、また輸入される低価格な食塩との価格競争もあり、2002年5月に製塩事業から撤退、塩田は財政部国有財産局に移管され、ここに台湾の製塩業は終焉を迎えた[29]
沿岸及び遠洋漁業1867年の打狗港

高雄は黒潮が流れ、また西部には澎湖水道が位置する好漁場に近く南台湾の主要な漁業基地となっている。古くから近海でのマグロカジキトビウオなどが水揚げされ、冬季のボラカラスミの原料として特に知られている。オランダ統治時代より高雄は漁業基地としての性格を有していた。しかし当時は小船を利用しての沿岸漁業が注視であり、水揚げされた魚介類は紅毛港や旗后などの魚市場で売られていたに過ぎない。

日本統治時代の1912年大正元年)、高雄港の第一期築港工事が完成すると、哨船頭運河周辺は大型漁船が停泊可能となり、また魚市場や燃料補給所、船舶整備工場、製氷工場、冷凍庫が設置され、高雄地区の漁業は哨船頭運河口に集中するようになった1919年(大正8年)には鼓山魚市場と哨船頭対岸の哈瑪星船着場が完成、1927年昭和2年)には50t以下の漁船150隻の収容が可能な鼓山漁港が完成すると、哨船頭に代わり哈瑪星が漁業の中心へと変貌した[30]

1924年(大正13年)の統計によると、高雄地区の竹筏は310余隻、帆船50余艘、発動機付漁船12隻のみであり、その漁獲量は限定的なものであったが、総督府及び高雄州などにより漁業振興政策が実施されると急速な発展を見せ、1933年(昭和8年)には動力漁船202隻、日本型帆船41隻、中国型帆船24隻、竹筏643隻となっている。このうち動力漁船及び日本型帆船の多くは沖縄漁民の所有であった。

日本の敗戦に伴い、1946年には国民政府による「高雄漁業会」接収が行われ「高雄市漁会」と改編された。1948年には漁会信用部による会員に対する融資事業が開始され、漁船などの設備更新が実現し台湾の漁業の近代化が行われた。1951年以後、アメリカからの支援を受けた国民政府は鉄鋼船の建造を進め、高雄を国際漁業基地として発展させ、遠洋漁業が実施されたことでマグロスルメイカの主要な水揚げ国へと変貌した。

これら遠洋漁業の発展にともない大型漁船が増加し鼓山漁港の収容能力に限界が生じてきた。そのため1963年かた1967年にかけて前鎮地区に新たな遠洋漁業基地の計画が立案され、1975年に高雄港第二期工事が完了、大型漁船は前鎮漁港を基地とするようになった。1986年には前鎮漁港の学長工事が実施され、100t以上の大型漁船600隻の収容が可能となり、製冰区、冷凍加工区、修理区、水産物加工区、漁具提供区、倉庫区、商業区、燃料タンク、魚市場、漁民福利センター等の設備が完備され、台湾最大の漁業センターに変貌している[31]

遠洋漁業の発展に対し、沿岸漁業は過度な捕獲の影響により漁業資源の枯渇、加えて漁業従業者の不足もありその漁獲量は漸減し、鼓山魚市場を利用する漁船も減少している。1984年、高雄区漁会が前鎮漁業大楼に移転した後は漁業関連の企業も移転または廃業し、鼓山魚市場は急速に衰退していった。近年高雄市政府は哨船頭碼頭を観光地区として再開発する計画を発表している。
農業
製糖業日本統治時代の橋仔頭製糖工場鐵道。

台湾南部での砂糖貿易は19世紀初頭に隆盛を極めた。当時の貿易相手国は中国であり、毎年の砂糖の貿易額は50万メキシコ銀貨に及んだとされる。高雄開港以前にアメリカの羅賓内洋行(Robinet & Co.)が設立されると、1854年から1857年までに香港のアメリカ商会Gideon Nye & Co.と協力し、台湾府より樟脳の専売権を獲得すると共に、高雄地区に進出し茶葉、砂糖、豆類の貿易を行っていた[32]

またCrosbie船長も1855年に高雄に進出、台湾府の支援を獲得して砂糖及び米の貿易特許を書くとくした1855年7月28日の『サンフランシスコ・デイリー・ヘレイド(San Francisco Daily Herald)』によれば米と砂糖は100袋1ドル、阿片が1包み50セントの価格であった。

日本統治時代の1901年、総督府は後藤新平の主導の下三井財閥及び鈴木藤三郎などの資本と400名の技術者を導入して橋仔頭に新式製糖工場を設立、短期間に生産量を10倍に増大させた。また第一次世界大戦の影響で台湾の砂糖の国際価格が良好なこともあり、1920年代にかけて台湾製糖業の最盛期を迎え、日本の経済を支える重要産業と貸し、また橋仔頭に土地、農業、工場、交通、金融等などの各方面での経済発展が見られた。しかし当時の甘蔗の買う付け価格は製糖工場側が決定しており、買付け価格が抑えられた甘蔗農家の生活は困窮していた[33]

1900年、橋仔頭製糖工場施工前、総督府は駅や郵便局などのインフラを整備し、橋仔頭地区に交通革命を与えた。1901年2月、台湾初の全鉄筋構造による製糖工場が操業開始すると、道路や鉄道貨物支線などの整備が行われた。1903年、牛の牽引による軽便鉄道が橋仔頭に敷設され、4年後には甘蔗専用の五分仔鉄道として正式に開業した。1904年当時、高雄陳氏が日本の「米糖王国」政策に協力し、自ら台湾資本として初めての製糖工場を設立している。更に1905年には橋仔頭地区に電話が開通、1907年には橋仔頭の第二製糖工場が設立され、その翌日には台湾初のアルコール工場が製造されている。1909年には工場設備の維持更新を目的に橋仔頭鑄物工廠(現在の台湾機械公司)が設立されるなどのインフラ整備が続いた。

それらの製糖工場の中でも旗山地区は製糖の中心を占めた。旗山糖廠は1908年に日本高砂製糖株式会社により設立され、操業初期は毎日1,000tの甘蔗を搾出していた。翌年には塩水港製糖株式会社と合併し合併し台灣製糖株式会社旗尾製糖廠所と改称、同時に白砂糖の製造を開始し日産1,800tを記録した。また1910年には旗山駅が設置され、この地区の砂糖の大量輸送を実現した。[34]

日本統治時代末期、日本の南進政策の一環として台湾の工業化が図られた。その中で製糖関連産業の研究が進み、無水アルコールパルプ原料酵母などの副産物に対する需要も高まり、単純な食品工業としての製糖業から化学工業へと転換されていった。1944年(昭和19年)、鳳山小港に東亜製紙株式会社が設立され、台湾製糖株式会社後壁林工場から提供される砂糖の搾りカスを利用した製紙事業が計画されたが、これは米軍の空襲により稼動するにいたらなかった。

戦後の台湾では、政府により「南糖北米」政策が推進され、砂糖は当時の台湾で貴重な外貨収入源となり、戦後の台湾経済の復興と発展に大きく寄与した。しかし1960年代から産業の転換が開始され、また1966年に砂糖の国際価格が暴落したことから、台湾の製糖業は次第に衰勢となっていった。
稲作


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