高野山
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紫雲殿、玄関・北廊・中廊 、南廊及西廊、放光閣 、宝蔵が国の登録有形文化財[10][11][12][13][14]
女人堂
不動坂口にあり、女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかった。古くは高野山の街道の七つの入口にそれぞれあったが、今は1つしか残っていない。大日如来、弁財天、神変大菩薩を祀る。
金輪公園
一心院谷にあり、今は公園になっていて、国宝不動堂が元はここにあった。明算検校が12世紀に創建し、1834年に再建された金輪塔がある。山側の影向明神には、丹生・高野明神を祀った二つの社が並ぶ、また、鬼子母神を祀る祠もある。
お助け地蔵尊
大門前の三差路から100m南、一つだけ願いを叶えてくれる。
清高稲荷社
奉納鳥居が並ぶ坂を上ると社殿がある。正一位清高稲荷大明神を祀り、境内には大黒天恵比寿弘法大師を祀る。弘法大師が京都の伏見稲荷大社より稲荷大明神を勧請したと伝わる。

女人堂

金輪公園 金輪塔

金輪公園 影向明神

お助け地蔵尊

清高稲荷社

子院群
金剛峯寺の修行僧が居住のために作った草庵を起こりとする寺院群。近畿三十六不動尊霊場である明王院南院新西国三十三箇所観音霊場である宝亀院西国愛染十七霊場である増福院・福智院・金剛三昧院など117か寺を数え(総本山金剛峯寺大本山宝寿院はこれに含まれない)、その約半数が宿坊を兼ねている[15]。以下の子院は宿坊を備えていて、金剛三昧院は有料だが境内を散策でき、他の子院は誰でも無料で自由に参拝できる堂がある。これ以外の宿坊のある子院にも、宿泊することにより本堂に入堂したり、庭園を臨んだり、護摩祈祷、阿字観や写経体験をできるところがある。

金剛三昧院金剛三昧院 多宝塔(国宝)境内地は国の史跡・世界遺産。建暦元年(1211年)、北条政子の発願による建立。源頼朝実朝の菩提を弔うための国宝・多宝塔のほか、重要文化財の客殿や経蔵などがある。西国愛染十七霊場17番。境内有料。

苅萱堂(かるかやどう)密厳院が管理している(東海近畿地蔵霊場)。金剛峯寺と奥之院のほぼ中間にある。苅萱道心と石童丸の哀話の舞台として知られる。

摩尼宝塔成福院が管理している釈迦堂。刈萱堂の前にある。ビルマ戦没者供養のため、ミャンマーから贈られた釈迦如来像を本尊として建立された。地下には戒壇巡りがある。
以下は無料で自由に参拝できる子院の堂宇

密厳院 刈萱堂

成福院 摩尼宝塔

恵光院 毘沙門堂

常喜院 赤地蔵

南院 浪切不動堂

登録有形文化財

橋本警察署高野幹部交番1921年(大正10年)建築で国の登録有形文化財。木造2階建、屋根は切妻造、銅板葺で正面に千鳥破風があり、また舟肘木・間斗束・蟇股や妻の豕扠首などの社寺院風建築技法を取り入れ、高野山の歴史的景観に配慮した外観である
[16]


南海電気鉄道鋼索線高野山駅駅舎1928年(昭和3年)建築で国の登録有形文化財。木造2階建、鋼板葺のモルタル塗の駅舎。丸窓や2階外壁に廻した水平帯などがある昭和初期の洋風建築だが、宝形屋根の頂部に宝珠を載せ高野山の地を意識した建築物である[17]

歴史

816年  弘仁7年 7月8日 空海、高野山下賜を上奏し、この年勅許が下る。

892年  寛平4年 5月19日 九度山の慈尊院「弥勒仏坐像」(国宝)が造立される。後補裳先墨書銘:「寛平四年歳次壬子五月十九日造仏事己了」。

994年  正暦5年 7月6日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍御影堂を残して全焼し、寺院にも類焼。

1086年 応徳3年 4月7日 金剛峯寺「仏涅槃図」(国宝)が描かれる。墨書銘:「応徳三年丙寅四月七日甲午奉写畢」。

1117年 永久5年?天治3年 4月15日 金剛峯寺「金銀字一切経」(国宝)が奥州藤原清衡の発願により書写される。

1145年 久安1年 10月23日 金剛峯寺「善女龍王像」(国宝)が定智によって描かれ、開眼供養される。

1149年 久安5年 5月12日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍全焼。多くの仏像、仏画類が焼失。

1156年 保元1年 4月29日 金剛峯寺「両界曼荼羅図(血曼荼羅)」(重文)が絵師常明法印によって描かれる。平清盛の頭血を採り絵の具に和して描かせた。

1223年 貞応2年 金剛三昧院「多宝塔」(国宝)を建立。北条政子源頼朝源実朝の菩提のために、安達景盛に命じて建立。

1401年 応永8年 正月19日 伽藍西塔炎上、新御塔、文殊楼、本経蔵、正智院一切経蔵に類焼。多くの聖教類が悉く焼失。

1464年 寛正5年 7月3日 高野山大火。高野山衆徒、堂衆と西院、谷上、南谷で合戦し、谷中で11か寺を残して悉く焼失。

1486年 文明18年 4月8日 金剛峯寺「諸尊仏龕」(国宝)付属「銅製厨子」が製作される。

1521年 永正18年(大永1年) 2月12日 高野山大火。寺院より出火、大塔、金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し、全山壊滅状態となる。

1594年 文禄3年 豊臣秀吉が高野山を参詣し、生母大政所の三回忌追善法要を行う。そのおり、連歌や能の会を催す。

1599年 慶長4年 3月21日 奥の院「経蔵」(重文)を石田三成が母の菩提の為に建立し、金剛峯寺「高麗版一切経」(重文)を同経蔵に奉納。

1599年 慶長4年 6月 正智院「高麗陣敵味方戦死者供養碑」(県指定)が薩摩藩島津義弘島津忠恒親子に依って建立される。朝鮮役における敵味方の戦死者を供養。

1599年 慶長4年 10月15日 清浄心院「佐竹義重霊屋」(重文)が佐竹為義重逆修の霊屋として造立される。

1604年 慶長9年・12年 蓮花院松平秀康及び同母霊屋(付属宝篋印塔7基)」(重文)が造立される。秀康の亡母(家康の側室)を祀るため、慶長九年に造立。また、慶長十二年四月八日には松平忠直によって、松平秀康(家康の子)の霊屋として、その隣に造立される。

1622年 元和8年 天徳院「天徳院庭園」(国の名勝)が小堀遠州によって造園される。

1630年 寛永7年 10月7日 高野山大火。大塔に落雷。暫くして塔腰部より猛火が起こり炎上焼失。伽藍諸堂をはじめ多くの寺院が類焼。

1690年 元禄3年 落雷により大門炎上。

1691年 元禄4年 千手院萬精院より出火、安養院まで延焼し89か寺が全焼。

1792年 寛政4年 2月16日 夜八ツ時、奥之院護摩堂より出火、焼失する。

1809年 文化6年 南谷から出火し、中門、勧学院一帯が類焼す。

1843年 天保14年 9月1日 高野山大火。壇上宝蔵の軒先から出火し、大塔をはじめ諸堂14棟が悉く焼失。

1863年 文久3年 現在の金剛峯寺「青厳寺本殿」(県指定)が再建される。万延元年(1860年)に焼失したことによる再建。

1869年 明治2年 3月29日 青厳寺・興山寺を合併して金剛峯寺と号する。 11月3日 高野山に神仏分離の通達が下る。

1870年 明治3年 西院如意輪寺をはじめ、南谷南院が焼失。

1872年 明治5年 興山寺全焼。

1879年 明治12年 千手院寂静院、普賢院、金剛頂院などが焼失。
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