高見盛精彦
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だから体をたたくようになった」とも話した[10]

ぎこちない仕草から角界のロボコップの愛称で親しまれる(名付け親は相撲ジャーナリストの銅谷志朗[11]、同部屋の元横綱・曙がこれを広めた)。「気合入れ」はパフォーマンスではなく、2000年の秋場所、若の里戦でケガをした経験から、立合いでの恐怖を取り除き「二度と怪我をしないように気を引き締める」ため始めたという。テレビ番組出演時、キャスターに「今、パフォーマンスをしてください」と要求されたが、「土俵以外ではできません」ときっぱり断ったこともある。

2004年1月場所、綱取りの栃東に土を付ける。右肩の故障以降は上位からは遠ざかったものの、白鵬琴欧洲稀勢の里安馬琴奨菊豊ノ島ら若手力士が上がってきたばかりの頃は、壁になっていた時期もあった。2005年までは名古屋場所と相性が良く殆ど好成績であり、2005年7月場所は一時優勝争いに加わっていた程。

2006年には北桜とのパフォーマンス男対決が話題となった、3月場所の初対決では負けたがその後2度目の対戦では勝った。11月場所では8場所ぶりの2桁10勝を挙げる。2007年11月場所、右足の大怪我で途中休場、5年半無休だったが十両陥落の危機になる。

2008年1月場所では十両に落ちればCM出演と懸賞を打ち切ると師匠である親方に言われたため[要検証ノート]、怪我が治りきっていない中で何とか勝ち越した。3月場所では8場所ぶりに2桁の10勝を挙げる。その後3場所連続で負け越したが11月場所で6回目の2桁10勝を挙げる。

その後も年齢的な衰えと付き合いながら2010年までは十両落ちの危機の度に踏み留まっていたが、2011年7月場所で3勝12敗と大負けを喫しついに十両に陥落してしまった。

大先輩の曙が引退・角界を去った後は東関部屋の部屋頭の地位にあり、関係者の間では潮丸とともに「2009年の師匠の東関親方の停年(定年)退職後は部屋を継いでもらいたい」との期待の声もあったが、結局、年齢や最高位は下ながら兄弟子である潮丸が現役を引退・部屋を継承することとなった。しかし、その潮丸が2019年12月13日に41歳で亡くなったため、その後は後述の通り高見盛が部屋を継承することとなった。

なお、高見盛が2007年に年寄名跡振分」を師匠・東関親方の兄弟子である朝嵐から取得したという報道が、2008年1月24日の夕刊フジにてなされたが[12]武蔵川部屋の元横綱・武蔵丸が「振分」名跡を10月22日に名乗ることが日本相撲協会より発表された際の報道では、「武蔵丸が朝嵐大三郎から名跡を借りている」こととなっていた[13]。その後、2010年4月7日付で「振分」名跡を取得したことが判明した[14]

2011年9月場所に十両に陥落してからは衰えが顕著になり、9場所中2場所しか勝ち越しを記録していなかった。特に巨漢や、突き押しが得意な相手には子供扱いされる場面が増えた。右肩の古傷も悪化する一方で、最後には三角筋付着部炎症に悩まされて引導を渡される格好となった。12代東関も引退直前の時期の高見盛を見て「押し相撲に弱くなった。踏ん張りがなくなってきた」と分析していた[15]
現役引退・引退後

2013年1月場所は幕下陥落の危機が囁かれる中で土俵に上がり、肩の故障を抱えながら奮闘したものの、12日目に9敗目を喫した時点で幕下陥落が決定的となった。そして千秋楽に若荒雄を下して5勝10敗として有終の美を飾り、現役引退を表明した[16]。会見では引退の理由について、「自分の体が結構ぼろぼろになっている」などと述べた[17][18]。同日付で年寄・振分を襲名した。

引退相撲断髪式は2013年10月6日両国国技館で行われ、断髪式ではやくみつる中尾彬白鵬翔ら角界・芸能界の著名人が大銀杏はさみを入れた後、入門時の師匠である12代東関・高見山が最後に大銀杏を切り落とした。

2017年3月場所は場所を休場した陣幕(元幕内・富士乃真)の代役として初めてとなる勝負審判を務めた。しかし9日目には、最初の2番こそ協議の説明をきちんと行えたが、3度目に物言いが付いた琴太豪-千代嵐戦では「両者の体が…」と言った後に、通常なら「落ちるのが同時と見て取り直しにします」と続けるところだが「が…と…ど……」と次の言葉が出てこない。向正面の錣山(元関脇・寺尾)が「落ち着け」と言わんばかりに、両手を下げるポーズを取り、ようやく「土俵の外に出ており取り直しにします」という表現で終えた[19]

2017年8月、板柳町のりんごの里板柳応援大使に就任[20]

2018年3月28日に審判部に配属され[21]、審判委員を務める[22]。また社会貢献部の一員として、本場所前に国技館周辺の清掃活動にも参加している[23]

2019年12月13日に、2009年6月から部屋の師匠を務めていた13代東関(元幕内・潮丸)が2019年12月13日に41歳で死去。「自分より強い人が何で急に体調を悪くするのか。信じられない」とコメントしており[24]、師匠不在となった東関部屋は八角部屋に一時預かりとなった。

本人は引退会見で「部屋持ちになるつもりは無い」と話していた[5]が、その後、13代東関の遺族と高砂一門内での話し合いにより東関部屋を継承することが2020年1月30日に報じられた[25][26]。同月30日の相撲協会理事会で継承が承認され[27]、12代・13代東関と同じく「東関大五郎」を名乗ることになった。同日に両国国技館で行われた師匠会に初めて参加し、「いろいろ考えた。自分が親方として相撲を教えるだけじゃなく相撲がダメになったとしても第二の人生を考えてやらないと。正直、今も落ち着かなくてドキドキしている」とその重責への思いを明かしている[28]

一部報道では、14代東関は自分の純粋過ぎる性格を自覚しているからこそ部屋経営には乗り気でなかったが、2016年に町興しの一環として部屋が葛飾区に移転したばかりである以上部屋継承を引き受けないわけにはいかず最終的に継承に至った、という分析がされている[29][30]

元々1年間の暫定措置という約束で師匠就任を引き受けたが、実質的な13代東関の後継者が就任する見通しが立たなかったため、2021年3月場所を最後に東関部屋が八角部屋に吸収合併される可能性が高いと同年3月場所前に報じられた[31][32]。14代東関は日本相撲協会を通じて出したコメントでは「部屋の力士たちにとって、よりよい稽古環境などを求め、八角理事長に相談させていただき、3月場所を最後に東関部屋を閉鎖して力士たちと八角部屋に転属させていただく決断をしました」[33]などとしており、所属する力士たちとともに4月1日付で八角部屋に移籍、部屋付き親方として指導に励むという[34]

2021年3月場所中、継承の話が出ていた2020年1月場所中、理事長がバックアップを約束して説得していたと報道されている。理事長が説得してやる気になったかと思えば「やっぱり無理です……」と理事長室へ通う状況となっていたという。部屋の師匠を務めていた1年の間は通いの形で指導をしており、ただ稽古を見守ってから弟子ともちゃんこを囲まずにすぐ帰っていたと後援会関係者がコメントしている[35][36]

週刊誌によると、部屋閉鎖の際に事情を知るある親方が「彼はいわば、超個人主義。極端に言えば他人に興味がなく、協調性に欠けるタイプです。現役時代から面倒見もよくなかったので、後輩から慕われているという話も聞いたことがない。高見盛はそんな自身の性格を自覚していることもあって、最初から『自分に弟子は育てられない』と固辞していた。1年限定と条件をつけたのも、妥協の産物です」と語っており「現在の東関部屋は土地は葛飾区から借りているが、上物は先代師匠の遺族の持ち物。高見盛も彼らに家賃を払っていた。潮丸の遺族と今の部屋に問題が生じていたわけではありませんが、部屋の所有権が先代側にある場合、トラブルが起こりがちなんです」と閉鎖に至った事情を説明していた[37][38]

同年3月12日に、13代おかみがブログで経緯説明を行った。それによると、13代死去の後、部屋の力士たちと個人面談を行ったところ、力士たちが残留を望んだという。そのため話し合いを重ね、マネージャーと13代おかみがサポートをしていたが、暫定期間の1年間をコロナに翻弄されるかたちになってしまった。事務・経理の手続きが進まず、また引退する力士のペースとスカウトのペースのバランスが取れなくなってきたことなどの問題が出てきて、さらに14代が師匠としての悩みを一人で抱え込んでしまったことがうかがえ、マネージャーとでは支えきれなかったと述べている[39]

2021年3月場所10日目、幕下の東照山 - 千代の勝戦に物言いが付いた際、「軍配通り」という協議結果であったところ「両者同体で取り直し」という内容に言い間違え、15代浅香山に促されて訂正した[40]

2021年7月場所の番付から、年寄名を「東関大五郎」から「東関精彦」に改名した。「東関大五郎」は12代東関時代から代々受け継がれていた年寄名であったが、下の名を自身の本名に改めた形になった[41]


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