1946年度 高等女学校における教育は、1879年(明治12年)9月29日公布の「教育令」第42条に見られるように、「男女別学」としての女子教育の位置付けであった。その内容は、「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」(明治32年、樺山資紀文相発言)とされるように、「家庭婦人」としての技芸教養の習得の場とされ、高等専門教育は必要ないとされていた向きがある。 女性の「社会進出」という側面が現代に比べて制限されていた時代の教育であり、高等女学校からの進学先は、高等女学校の専攻科及び高等科・師範学校の女子部・女子高等師範学校・女子専門学校・一部の私立大学などに限られ、実際にこれら高等教育機関に進学した者は第二次世界大戦期を通して1%に満たなかった[11]。高等専門教育機関である大学が女子に門戸を開放したのも、第二次世界大戦後まで先送りされていた[12]ことからも、高等女学校が中等教育機関として地域及び社会に与えた影響は大きい。 男子の旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。1910年(明治43年)には193校であった高等女学校数はわずか10年後(1920年(大正9年))で倍増し、在籍する生徒数も1925年(大正14年)には5倍近くまで膨れ、在籍生徒数も同時期の(男子の)中学校在籍者数を上回るほどだった[11]。男子の教育が“農業・工業等の産業従事や兵役への即戦力”の育成が求められた結果、中学校進学を制限する必要があったのに対し、社会進出が制限された女子への教育はそこまでの必要性がなかったからと思われる。実科高等女学校が設置されていったことも、都市部だけでなく農村部にも高等女学校が普及していくきっかけとなった[11]。旧制中学校は設置が事実上制限されていて、都道府県市町村が自由に設置できなかったが、高等女学校についてはそこまで制限が厳しくなかった。 1905年には5%にも満たなかった高等女学校進学率は、女子の尋常小学校就学率がほぼ100%になる1910年辺りから徐々に高まり、1920年には9%、1925年には15%近くにまで上昇し、ほぼマス段階に入った[11]。
(昭和21年度)1947年度
(昭和22年度)1948年度
(昭和23年度)1949年度
(昭和24年度)1950年度
(昭和25年度)1951年度
(昭和26年度)
学制改革
高等女学校の募集を停止
新制中学校が発足
新制中学校を併設学制改革
高等女学校を廃止
新制高等学校が発足
年度末で併設中学校廃止
1943年(昭和18年)入学生高等女学校4年高等女学校5年新制高校3年
1944年(昭和19年)入学生高等女学校3年高等女学校4年新制高校2年新制高校3年
1945年(昭和20年)入学生高等女学校2年併設(新制)中学3年新制高校1年新制高校2年新制高校3年
1946年(昭和21年)入学生高等女学校1年併設(新制)中学2年併設(新制)中学3年新制高校1年新制高校2年新制高校3年
1948年(昭和23年)以降 - 高校三原則に基づく公立高等学校の再編
旧制中学校・実業学校を前身とする高等学校と統合され、総合制高等学校(男女共学)が徐々に増加する。
総合制高等学校となった数年後、実業科が分離し、実業(工業・農業・商業)高等学校として独立する例も多かった。
統合を行わず共学化した学校もある。また、現在まで女子高等学校で存続する学校もある。(群馬県・埼玉県・栃木県など北関東地域に多数存在。宮城県・福島県などの南東北地域の女子高等学校は21世紀に入り男女共学化した。)
男女共学となったが、高等女学校であったという歴史的背景により男子の入学生が少なく、しまいには男子の在籍が0となり、実質女子校となっている学校もある。
私立の高等女学校は大半が女子高等学校として存続したが、21世紀以降は生徒数減少の影響を受けて共学化に舵を切る学校が増加している。
1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生[7]を送り出し、併設中学校が廃止される。
ただし私立の高等学校に関しては併設中学校を廃止せず、現在まで中高一貫校として残っている学校が多い。
教育方針
進路
設置数
作品
藪の鶯(三宅花圃) 1888年初出
花物語(吉屋信子) 1916年初出
乙女の港(川端康成) 1937年-1938年連載
森
はいからさんが通る(大和和紀) 1975年初出