高等女学校
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実科の科目 - 裁縫に多くの時間を当て、実業を加える。

地方の情況に応じて実科高等女学校を高等小学校に附設することが認められる。


1920年大正9年)7月6日 - 高等女学校令の改正(大正9年勅令第199号)

設置者を従来の道府県から市町村・学校組合にも拡充。

修業年限5年を基本とする。

従来の専攻科に加え、高等女学校卒業者に対して高等科(修業年限:2?3年)の設置を可能とした。


1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、高等女学校の入学資格が国民学校初等科修了程度(12歳以上)となる。

1943年(昭和18年)

1月21日 - 中等学校令(昭和18年勅令第36号)の公布、高等女学校規程の制定。

中学校・高等女学校・実業学校の3種の学校が中等学校(旧制)として同じ制度で統一。

昭和18年度入学生から修業年限が4年に短縮。

国民学校高等科卒業程度(14歳以上)を入学資格とする高等女学校(修業年限2年)の設置を認可。

夜間高等女学校(修業年限3年)の設置を認可。

従来の補習科を廃止。

実科高等女学校の名称を廃止。


10月12日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策閣議決定される。

昭和19年度より4学年修了者にも上級学校入学の資格を与える。

昭和20年3月より、中等学校令施行前に入学した生徒(1941年(昭和16年)入学生)にも修業年限4年を適用(修業年限短縮)する[5]


12月 - 第32軍(沖縄守備軍)司令部が直接沖縄県側に申し入れる形で県下15歳からの高等女学校の学徒隊編成が決定される。


1945年(昭和20年)

3月 - 決戦教育措置要綱[6]が閣議決定され、昭和20年度(同年4月から翌3月末まで)授業が停止されることとなる。

米軍の沖縄上陸を目前に沖縄県で県下9校の高等女学校の生徒が学徒隊(ひめゆり学徒隊白梅学徒隊など)に編成され、看護活動などに従軍して夥しい犠牲者をだした。


5月22日 - 戦時教育令が公布され、授業を無期限で停止することが法制化。

8月15日 - 終戦

8月21日 - 文部省により戦時教育令の廃止が決定され、同年9月から授業が再開されることとなる。

9月12日 - 文部省により戦時教育を平時教育へ転換させることについての緊急事項が指示。


1946年(昭和21年) - 修業年限が5年に戻る。

1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)

高等女学校の生徒募集を停止。

新制中学校を併設し(名称:高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)、高等女学校1[7]・2年[8]修了者を新制中学校2・3年生として収容。

新制中学校は経過措置として暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。ただし私立に関しては生徒募集を継続し、現在でも中高一貫校として残す学校が多い。

高等女学校3[9]・4年[10]修了者はそのまま高等女学校の在籍とし、その4・5年生となる(4年で卒業もできた)。


1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)

高等女学校が廃止され、新制高等学校が発足。旧高等女学校の多くが女子高等学校となる。

高等女学校卒業生[10]を新制高校3年、高等女学校4年修了者[9]を新制高校2年として編入。

併設中学校卒業生[8]を新制高校1年とする。

併設中学校は高等学校に継承され(名称:高等学校併設中学校)、在校生が3年生[7]のみとなる。私立に関しては生徒募集を継続し、現在でも中高一貫校として残す学校が多い。


【高等女学校から新制高等学校への移行】

1946年
(昭和21年度)1947年
(昭和22年度)1948年
(昭和23年度)1949年
(昭和24年度)1950年
(昭和25年度)1951年
(昭和26年度)
学制改革
高等女学校の募集を停止
新制中学校が発足
新制中学校を併設学制改革
高等女学校を廃止
新制高等学校が発足
年度末で併設中学校廃止
1943年(昭和18年)入学生高等女学校4年高等女学校5年新制高校3年
1944年(昭和19年)入学生高等女学校3年高等女学校4年新制高校2年新制高校3年
1945年(昭和20年)入学生高等女学校2年併設(新制)中学3年新制高校1年新制高校2年新制高校3年
1946年(昭和21年)入学生高等女学校1年併設(新制)中学2年併設(新制)中学3年新制高校1年新制高校2年新制高校3年


1948年(昭和23年)以降 - 高校三原則に基づく公立高等学校の再編

旧制中学校・実業学校を前身とする高等学校と統合され、総合制高等学校(男女共学)が徐々に増加する。

総合制高等学校となった数年後、実業科が分離し、実業(工業・農業・商業)高等学校として独立する例も多かった。

統合を行わず共学化した学校もある。また、現在まで女子高等学校で存続する学校もある。(群馬県埼玉県栃木県など北関東地域に多数存在。宮城県福島県などの南東北地域の女子高等学校は21世紀に入り男女共学化した。)

男女共学となったが、高等女学校であったという歴史的背景により男子の入学生が少なく、しまいには男子の在籍が0となり、実質女子校となっている学校もある。

私立の高等女学校は大半が女子高等学校として存続したが、21世紀以降は生徒数減少の影響を受けて共学化に舵を切る学校が増加している。


1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生[7]を送り出し、併設中学校が廃止される。

ただし私立の高等学校に関しては併設中学校を廃止せず、現在まで中高一貫校として残っている学校が多い。


教育方針

高等女学校における教育は、1879年明治12年)9月29日公布の「教育令」第42条に見られるように、「男女別学」としての女子教育の位置付けであった。その内容は、「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」(明治32年、樺山資紀文相発言)とされるように、「家庭婦人」としての技芸教養の習得の場とされ、高等専門教育は必要ないとされていた向きがある。
進路

女性の「社会進出」という側面が現代に比べて制限されていた時代の教育であり、高等女学校からの進学先は、高等女学校の専攻科及び高等科・師範学校の女子部・女子高等師範学校女子専門学校・一部の私立大学などに限られ、実際にこれら高等教育機関に進学した者は第二次世界大戦期を通して1%に満たなかった[11]。高等専門教育機関である大学が女子に門戸を開放したのも、第二次世界大戦後まで先送りされていた[12]ことからも、高等女学校が中等教育機関として地域及び社会に与えた影響は大きい。
設置数

男子の旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。1910年(明治43年)には193校であった高等女学校数はわずか10年後(1920年(大正9年))で倍増し、在籍する生徒数も1925年(大正14年)には5倍近くまで膨れ、在籍生徒数も同時期の(男子の)中学校在籍者数を上回るほどだった[11]。男子の教育が“農業・工業等の産業従事や兵役への即戦力”の育成が求められた結果、中学校進学を制限する必要があったのに対し、社会進出が制限された女子への教育はそこまでの必要性がなかったからと思われる。実科高等女学校が設置されていったことも、都市部だけでなく農村部にも高等女学校が普及していくきっかけとなった[11]。旧制中学校は設置が事実上制限されていて、都道府県市町村が自由に設置できなかったが、高等女学校についてはそこまで制限が厳しくなかった。

1905年には5%にも満たなかった高等女学校進学率は、女子の尋常小学校就学率がほぼ100%になる1910年辺りから徐々に高まり、1920年には9%、1925年には15%近くにまで上昇し、ほぼマス段階に入った[11]
作品

藪の鶯
三宅花圃1888年初出

花物語吉屋信子1916年初出

乙女の港川端康成1937年-1938年連載

森(野上弥生子1972年-1985年新潮で連載。明治女学校を舞台に作者の自伝的小説。

はいからさんが通る大和和紀1975年初出


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