水産講習所製造科に入所した高碕だが、講義は当時の高等学校や高等工業学校よりもレベルが低く、退屈なものであった。1904年に日露戦争が勃発すると、軍に提供する缶詰が必要となった。講習所では缶詰製造が主要な日課となっていたため、高碕たちは各地に出来た缶詰工場に指導に行った。日露戦後は、日比谷焼き打ち事件で急先鋒として行動するなど、相変わらず無鉄砲さは健在だった。半蔵門の交番を攻撃しに行ったところ、逆に捕まり、3日間ほど勾留されたこともあったという。
高碕は卒業後、三重県津市を本拠とする「東洋水産」という缶詰製造会社に技師として就職した。当時は日露戦中に乱立した缶詰工場の処理として、イワシの缶詰を米国に輸出することになり、設立されたのが東洋水産だった。しかし、米国での売れ行きは芳しくなく、事業は失敗に終わった。
1911年、高碕はメキシコの太平洋沿岸の水産調査に協力するため、メキシコに派遣されることになった。高碕はアメリカ・サンディエゴに本拠を置く「メキシコ万博漁業」という水産会社と3年の雇用契約を結び、働き始めた。
1912年、マグダレナ湾
内のサンタマルガリタ島に缶詰工場が建設されることになり、派遣された。当時、島はアメリカがメキシコと契約し、米太平洋艦隊の艦砲射撃の根拠地としていたが、米墨関係が冷え込みメキシコが契約を打ち切るという運の悪い時期に工場を建設することになった。この頃は日米関係も冷え込んでいたために、高碕は島に秘密裏に日本海軍の基地を建設するために派遣されたスパイだという嫌疑をかけられたが、水産講習所時代に来日し親交のあったスタンフォード大学総長のデイビッド・スター・ジョーダンの紹介で、後のアメリカ大統領、ハーバート・フーバーの尽力によって疑いを晴らすことができた。翌1913年にメキシコ革命が起こると、高碕はアメリカに移って製缶詰工業の研究を中心に行い、翌年に帰国した。帰国後、すぐにカムチャツカへ渡り、堤清六の作った缶を購入して、サケの缶詰作りを行ったが、短期間で日本へ引き揚げた。高碕はまた渡米を試みたものの、父に結婚を諭され、1917年に50万円の資本金で大阪に製缶会社「東洋製罐」を立ち上げた。
1937年に日中戦争が勃発すると鉄の供給は滞り始め、満洲重工業開発へ鉄を譲ってもらうための交渉へ向かう事を考えたが、時局柄、満洲で鉄生産を手伝うことになり、満洲重工業開発副総裁に就任した。満業ではコスト削減に力を注ぎ、1942年には鮎川義介に代わり総裁になったが、軍部の圧力により会社の統制が執れない状態になっていた。
1945年8月8日のソ連対日参戦によってソ連軍が満洲に攻め込んでくると、高碕は子供や老人の疎開を談判に奔走したが、8月12日に極度の疲労と日射病で倒れ、目が覚めたのはポツダム宣言受諾後の8月17日だった。そのときは満洲国政府要人や関東軍の幹部などは捕らえられ、残されたのは一般人だけだった。高碕は日本人会会長としてソ連側と帰国できないままでいる多くの日本人の帰還交渉を始めたが、1946年4月になるとソ連軍は撤退し、中共軍が進出してきた。今度は中国共産党や国民政府と帰還交渉を進めることになった。
高碕は1947年に国民政府に賠償の調査に内地出張を命ぜられ、日本へ帰還した。同年に東洋製罐相談役に就任した。帰国後は戦中に遅れた技術を取り戻すためにアメリカの企業と提携するなど、特に製鉄事業の再興に努めた。 1952年、当時の内閣総理大臣・吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁に就任した。当時、最も工事が進んでいるといわれた木曽川の丸山ダムを視察し、大量の人員や重機があるのに半分ほどしか動いていなかった現場を目の当たりにした高碕は、技術者を引き連れてアメリカのダム建設の視察に向かった。カリフォルニア州のパインフラットダム 1954年8月に電源開発総裁から身を引いた高碕は、新たに内閣総理大臣に就任した鳩山一郎に請われ同年12月に第1次鳩山内閣に経済審議庁長官として入閣した。最初は政治家にはならぬと考えていた高碕だが、いざ入閣してしまうとそうはいかなかったらしく、1955年の第27回衆議院議員総選挙に大阪3区より出馬し、最高点で当選した。その後の第2次鳩山内閣でも経済審議庁長官(1955年7月より経済企画庁に改称)に留任し、同年に開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)には鳩山首相の代理で日本政府代表として出席し、ネルー、ナセルや周恩来などと親交を深めた。1956年には日比賠償協定の首席全権として日比国交正常化の実現にあたった。1957年には東洋製罐、東洋鋼鈑の会長を兼任した。
電源開発総裁就任
政界へ
1964年2月24日に死去。享年79。死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた。また、死の前日には高槻市の名誉市民表彰を受けている。正三位・勲一等旭日大綬章。なお、彼の遺した絶筆は「荘川桜」移植事業を共に推進した笹部新太郎に宛てた手紙であり、その内容は「(荘川)桜の名前を取り決めておきたい」という内容であった。墓所は小平霊園(39-1-8)。
エピソード高碕達之助
動物や植物を深く愛し、特に自然豊かなサンタ・マルガリタ島