『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していた為、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。その時、高畑が「なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木等に提案した[25]。これを受け、1985年、徳間書店が宮崎等の映画製作の為、スタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、役員への就任を辞退した[25]。亡くなるまでスタジオジブリに所属していたものの、経営に関わる役職には就かなかった。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う、畑事務所を持っていた。
1988年『火垂るの墓』の監督を務める。公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面等、未完成のシーンが残ったままとなり、僅かながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、一旦アニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰している。
『おもひでぽろぽろ』を作る前に、しかたしん原作の『国境』を元に、満州国と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、1989年に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。
1994年には自ら原作を手がけた『平成狸合戦ぽんぽこ』を公開、配給収入で26億円を得て邦画ではトップとなる[26]。これは高畑の監督作品でも最高の成績となった[注 7]。また、スタジオジブリ時代の監督作では唯一のオリジナル作品である。
1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を公開した後は、公開作品が10年以上途切れた。 2000年代初頭、高畑の次回作と目されたのは『平家物語』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念[27]。鈴木敏夫の発案により、日本の古典『竹取物語』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から山本周五郎の『柳橋物語』や赤坂憲雄の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る[27][注 8]。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ、高畑の場合、自分で絵を描く事が出来ないので、彼のイメージを具現化出来るアニメーターが必要になるので、その点が難しいが何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。2008年に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。この年に企画が最終的に『竹取物語』に戻った事が後に明らかになっている[27]. 2009年10月、高畑の新作が『竹取物語』を原作に、『鳥獣戯画』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた[28]。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『週刊文春』で紹介される[29]。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と語った[29]。高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年夏に公開予定である事を正式に発表した[30][31][32]。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期される事が発表され[33]、同年11月23日に公開された。 アニメーション以外にも、人形劇の演出も行なっていた。晩年には、フランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画『キリクと魔女』等の一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出や、原作本の翻訳も手がけた。 2015年6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選ばれた[34]。 最晩年に、西村義明と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、病状悪化の為、死の3ヶ月前に断念した[35]。2018年4月5日1時19分、肺がんの為、入院先である帝京大学医学部附属病院で死去した[36]。満82歳没(享年84)。監督としては2013年公開の『かぐや姫の物語』が遺作となった。高畑の死去は海外メディアでも報道された[37][38][39][40][41]。 死去から1ヶ月余りが過ぎた5月15日に、三鷹の森ジブリ美術館で「お別れの会」が営まれ、宮崎駿・大塚康生・小田部羊一・久石譲がコメントを読み上げた[42][43][44][45]。
かぐや姫の物語
死去