高畑勲
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移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、高畑は東映動画の(残った)仲間に申し訳ないという思いを抱いたという[20][注 6]。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当したのも、そうした状況で受けた仕事の一つだった[21]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「のちのルパンシリーズの原型を作り上げた」とされるが、[要出典]高畑自身は「それなりに面白くできた話もありますけど、正直なところ投げ出すしかなくて、責任を取りたくない回もあります」と述べている[20]

1972年に映画『パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の演出を務める。この映画の制作に際しては『長くつ下のピッピ』で作りかけた世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)が活用された[21]。脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる[要出典]。
日本アニメーションに移籍

ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出・監督を担当[22]、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい(詳細は後述)。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。

1977年、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎シンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した[23]。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという[23]。楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している[23]
テレコム・アニメーションフィルムに移籍

1980年、『赤毛のアン』が終わりのんびりしていた高畑のもとに、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれた。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、その後、大阪の下町へのロケハンも敢行した[24]。1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。

その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。『チエ』が公開された1981年にテレコム・アニメーションフィルムへ移籍した。

同じ時期に、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1981年に完成(劇場公開は1982年)した作品は毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞した。

『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』に参加する。いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する(宮崎駿は一足先に退社していた)。『NEMO/ニモ』製作のための渡米時にフレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。
風の谷のナウシカ

その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した[25]。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。

しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった[25]


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