高畑勲
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生い立ち

1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)で、高畑浅次郎[6]の三男として生まれる[7]。父の浅次郎は当時中学校の校長であり、戦後は岡山県の教育長となり、後に同県初の名誉県民にまでなった人物であった[7]1943年(昭和18年)に浅次郎が岡山一中校長となり、岡山市へ転居した[8]。またこの時に、岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)に転校した[9]。9歳のときに岡山市で空襲に遭った。これが高畑の人生における一番強烈な体験だった。高畑はすぐ上の姉とともに家族とはぐれ、火の雨と猛火のなかを逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい黒い雨に打たれていた[10]1951年(昭和26年)に岡山大学附属中学校卒業後、岡山県立朝日高校に入学[9]1954年(昭和29年)に同校を卒業し、東大に入った二人の兄に続いて自らも東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の東京大学文科三類[注 3])に入学し[9]上京する。

上京した大学生時代に、1955年に公開されたポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』(のちに改作され『王と鳥』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる[9]。畑にとっては、これが、フランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品との出会いであった。高畑はこれに影響を受け、後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳も手がけた。『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。東京大学文学部仏文科卒業[9]
東映動画に入社

長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて[9]、アニメーション映画を作る事を決意。1959年(昭和34年)、大学卒業後に東映動画に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生で、同期に池田宏がいる[11][注 4]

入社後間もない1960年前後に、内田吐夢監督による『竹取物語』の漫画映画化企画が立ち上がった[12]。この時、東映動画社内で脚本プロットの募集がおこなわれたが、高畑は応募しなかった。しかしながら高畑はこのとき「ぼくたちのかぐや姫」というメモや、「『竹取物語』をいかに構成するか」というノートを残している[12]

高畑は、その後、映画安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり[13]テレビアニメ狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、大塚康生の推薦により、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される[14]。この作品はのちに高い評価を得た。しかし、予算やスケジュールの大幅な超過から当時高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった[15]
Aプロダクション時代

太陽の王子 ホルスの大冒険』の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた[16]。そんな折に、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎大塚康生から、『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される[16]


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