5歳の時、世田谷区千歳船橋に引っ越しして、そこで育つ[11]。近所に森繁久彌宅、清川虹子宅があった[11]。小学校低学年から詩吟を習い、全国大会で3位になったことがある[3]。
小学校の時に『雲の上団五郎一座』『おとなの漫画』(フジテレビ)などに強い影響を受けて、青島幸男を目標に放送作家を志す。世田谷区立船橋中学校、日本学園高校を経て、日本大学芸術学部放送学科に入学し、落語研究会(日本大学芸術学部落語研究会)に所属。中学の同級生に俳優の志賀廣太郎が、高校の同級生に俳優の荒木しげるが、大学の同期に高井正憲[12]と古今亭右朝が、後輩に森田芳光がいる。立川談志に心酔、談志の著書『現代落語論』がバイブルで「落語の才能が無い」と森田を辞めさせている[7]。「青島幸男に憧れて、早稲田を志したが出来が悪かったので諦めた」と著書に記した。
中学高校でエルヴィス・プレスリー、ビートルズの洗礼を受けたロック少年であり、高校時代はボーカルとして「高田バンド」を結成した。当時から既にライブでは曲の合間に漫談やコントを入れていた。[13]。 大学卒業後は放送作家の塚田茂に弟子入り(後に破門)して、「スタッフ東京」設立に参加。1973年、『ひらけ!ポンキッキ』で放送作家デビュー。 その後は『時間だヨ!アイドル登場』(日本テレビ)『ロッテ 歌のアルバム』『笑ってポン!』(以上、TBS)、『スターどっきり(秘)報告』『夜のヒットスタジオ』『オレたちひょうきん族』『らくごin六本木』(以上、フジテレビ)、『笑アップ歌謡大作戦』(テレビ朝日)、『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京)、『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、フジテレビの正月の名物番組『初詣!爆笑ヒットパレード』など数多くのバラエティ番組を手掛ける。『スターどっきり』『凸凹大学校』などの番組テーマ曲の作詞も手掛けた。 著書の『江戸前で笑いたい』やテレビ史の番組のインタビューでは構成を担当していた『ひょうきん族』の裏番組であり、高田自身も構成を一時期担当していた『8時だョ!全員集合』への対抗心から、いかりや長介の傲慢ぶりを批判したり、「ドリフはアドリブがなく、自分が考える笑いとは違う」などと述べた[14]。 2009年より、日大芸術学部時代からの友人で放送作家の松岡孝に頼まれ、放送作家養成セミナーの講師を務めた。 2024年現在、番組構成の仕事は殆ど行っていないが、後述するタレント活動や作詞、プロデュースなどを手掛けている。 自身もタレントとして活躍。NHKの子供番組『600 こちら情報部』では戸田恵子らとともにレポーターを務める。『THE MANZAI』では景山民夫[15]と組み、「民夫くんと文夫くん」として漫才を披露した。 1983年、立川談志の落語立川流Bコース(芸能人・著名人コース)に入門。立川 藤志楼(たてかわ とうしろう。「とうしろう」は業界用語の「トーシロー」=しろうとの意味)を名乗り、1988年には真打に昇進した。真打昇進後から1990年代前半に掛けて精力的に高座を務め、多くがCD化された。その後は落語家としては休業状態であったが、2006年4月中旬に約10年振りに高座に上がった。2008年から新音源によるCDシリーズを発表している。 2006年、ワザオギからCDが発売された際は紀伊国屋書店新宿本店 2階にあったCD販売店のミュージックテイトで「発売直後の週間売り上げ枚数が宇多田ヒカルを抜いた」と発表された。宇多田ヒカルが新盤の発表前であったことや、この店が落語・お笑い関係のCDやカセットテープに力を入れていることによるものである。 学生時代に青島幸男か永六輔に弟子入りしようとした。永には弟子入りを志願する手紙を送るが、「僕は弟子を取るつもりはありません。お友達にならなりましょう」との返信が来て断念している。高田が放送作家になり、15年後に永に対面した際にこの件を話したところ、「今からでも遅くありません。弟子になってください」と冗談めかした手紙が後日届いたが高田は「自力でなんとかなった」と断っている[16]。2014年に「永六輔、高田文夫。幻の師弟・初のふたり会」を開催している。後に永の孫である永拓実 芸人にならなかった理由として、「売れてなくても芸が下手でも年功序列で『○○兄さん』とヨイショしなければならないことが苦痛に感じるから」と語っている。 東京ボーイズに加わって舞台に立つ場合は「ニュー東京ボーイズ」となる。 『たけし・逸見の平成教育委員会』第1期「生徒」として、セミレギュラー出席していた。『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』は1989年4月より放送開始。2024年現在も続くニッポン放送の長寿番組となっている。 テレビ番組の構成作家をしていた1975年頃、ポール牧や青空球児・好児らの薦めによりビートたけしと対面して意気投合。
放送作家
弟子
松岡 昇 (まつおか のぼる)
1962年、山口県生まれ。日本大学在学中に弟子入り。『ビートたけしのオールナイトニッポン』のハガキ仕分けを皮切りに笑福亭鶴光、伊集院光、ナイツ、清水ミチコなどのラジオ番組を担当。清水ミチコをアネキ、橋克実をアニキと尻尾を振る姿から、師匠の高田に「子分肌マツオカ」と命名された。妻は増山さやか(ニッポン放送アナウンサー)。
元祖爆笑王(がんそばくしょうおう、本名は高橋 裕幸(たかはし ひろゆき))
1964年、秋田県生まれ。日本大学芸術学部の2年次に弟子入り。卒業と同時に『田中義剛のオールナイトニッポン』『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』などの構成を手掛け、『大事MANブラザーズバンド・立川俊之のパックインミュージック21』は立川の相方として出演。テレビは『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『殿様のフェロモン』『めちゃ×2モテたいッ!』『学校では教えてくれないこと!!』『笑っていいとも!』『初詣!爆笑ヒットパレード』『出動!ミニスカポリス』などを担当した。最近では地方局でも活躍(東京・大阪・名古屋・福岡・札幌の基幹5地区全てで手掛けた)。テレビ西日本他FNS 4局共同番組『日韓親善ライブ 笑ってチョゴリ』が日本民間放送連盟賞テレビエンターテインメント最優秀賞を受賞。若手の発掘や育成に力を注いでおり、太田プロダクション、東京アナウンス学院などで講師を、日本大学藝術学部、日本大学文理学部、専修大学文学部の非常勤講師を務めている。男鹿市観光大使、秋田県PRメディアプロデューサー、秋田ノーザンハピネッツ親善大使、秋田市観光PRアドバイザーに就任。
松田健次 (まつだけんじ)
1966年2月13日生まれ。東京都出身。埼玉大学卒業後、弟子入り。師である高田が出演する『ラジオビバリー昼ズ』や『たまにはキンゴロー』『夜鳴き弁天』『ピロピロ』他、関東高田組出身の浅草キッドや松村邦洋、春風亭昇太、大川興業・江頭2:50等に関わる番組やライブ、著書でも構成を担当。
タレント・落語家
ビートたけしとの関係