高田文夫
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東京都渋谷区富ヶ谷に生まれる[6]。父の高田栄三は歴史書関係の出版社 国文社の経営者で丹羽文雄と仲が良かった事から「文雄」と名付けられた[7][8]。父方の親戚は出版社の経営者が多く、雑誌『映画評論』発行人高田俊郎もその一人で芸能好きは彼の影響が大きい[9]。母方は代々、渋谷で鳶の頭を務めた[10]。兄弟は姉2人。

5歳の時、世田谷区千歳船橋に引っ越しして、そこで育つ[11]。近所に森繁久彌宅、清川虹子宅があった[11]。小学校低学年から詩吟を習い、全国大会で3位になったことがある[3]

小学校の時に『雲の上団五郎一座』『おとなの漫画』(フジテレビ)などに強い影響を受けて、青島幸男を目標に放送作家を志す。世田谷区立船橋中学校、日本学園高校を経て、日本大学芸術学部放送学科に入学し、落語研究会(日本大学芸術学部落語研究会)に所属。中学の同級生に俳優の志賀廣太郎が、高校の同級生に俳優の荒木しげるが、大学の同期に高井正憲[12]古今亭右朝が、後輩に森田芳光がいる。立川談志に心酔、談志の著書『現代落語論』がバイブルで「落語の才能が無い」と森田を辞めさせている[7]。「青島幸男に憧れて、早稲田を志したが出来が悪かったので諦めた」と著書に記した。

中学高校でエルヴィス・プレスリービートルズの洗礼を受けたロック少年であり、高校時代はボーカルとして「高田バンド」を結成した。当時から既にライブでは曲の合間に漫談やコントを入れていた。[13]
放送作家

大学卒業後は放送作家の塚田茂に弟子入り(後に破門)して、「スタッフ東京」設立に参加。1973年、『ひらけ!ポンキッキ』で放送作家デビュー。

その後は『時間だヨ!アイドル登場』(日本テレビ)『ロッテ 歌のアルバム』『笑ってポン!』(以上、TBS)、『スターどっきり(秘)報告』『夜のヒットスタジオ』『オレたちひょうきん族』『らくごin六本木』(以上、フジテレビ)、『笑アップ歌謡大作戦』(テレビ朝日)、『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京)、『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、フジテレビの正月の名物番組『初詣!爆笑ヒットパレード』など数多くのバラエティ番組を手掛ける。『スターどっきり』『凸凹大学校』などの番組テーマ曲の作詞も手掛けた。

著書の『江戸前で笑いたい』やテレビ史の番組のインタビューでは構成を担当していた『ひょうきん族』の裏番組であり、高田自身も構成を一時期担当していた『8時だョ!全員集合』への対抗心から、いかりや長介の傲慢ぶりを批判したり、「ドリフはアドリブがなく、自分が考える笑いとは違う」などと述べた[14]

2009年より、日大芸術学部時代からの友人で放送作家の松岡孝に頼まれ、放送作家養成セミナーの講師を務めた。

2024年現在、番組構成の仕事は殆ど行っていないが、後述するタレント活動や作詞、プロデュースなどを手掛けている。
弟子
松岡 昇 (まつおか のぼる)
1962年、山口県生まれ。日本大学在学中に弟子入り。『ビートたけしのオールナイトニッポン』のハガキ仕分けを皮切りに笑福亭鶴光、伊集院光、ナイツ、清水ミチコなどのラジオ番組を担当。清水ミチコをアネキ、橋克実をアニキと尻尾を振る姿から、師匠の高田に「子分肌マツオカ」と命名された。妻は
増山さやか(ニッポン放送アナウンサー)。
元祖爆笑王(がんそばくしょうおう、本名は高橋 裕幸(たかはし ひろゆき))
1964年、秋田県生まれ。日本大学芸術学部の2年次に弟子入り。卒業と同時に『田中義剛のオールナイトニッポン』『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』などの構成を手掛け、『大事MANブラザーズバンド・立川俊之のパックインミュージック21』は立川の相方として出演。テレビは『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『殿様のフェロモン』『めちゃ×2モテたいッ!』『学校では教えてくれないこと!!』『笑っていいとも!』『初詣!爆笑ヒットパレード』『出動!ミニスカポリス』などを担当した。最近では地方局でも活躍(東京・大阪・名古屋・福岡・札幌の基幹5地区全てで手掛けた)。テレビ西日本他FNS 4局共同番組『日韓親善ライブ 笑ってチョゴリ』が日本民間放送連盟賞テレビエンターテインメント最優秀賞を受賞。若手の発掘や育成に力を注いでおり、太田プロダクション、東京アナウンス学院などで講師を、日本大学藝術学部、日本大学文理学部、専修大学文学部の非常勤講師を務めている。男鹿市観光大使、秋田県PRメディアプロデューサー、秋田ノーザンハピネッツ親善大使、秋田市観光PRアドバイザーに就任。
松田健次 (まつだけんじ)
1966年2月13日生まれ。東京都出身。埼玉大学卒業後、弟子入り。師である高田が出演する『ラジオビバリー昼ズ』や『たまにはキンゴロー』『夜鳴き弁天』『ピロピロ』他、関東高田組出身の浅草キッドや松村邦洋、春風亭昇太、大川興業・江頭2:50等に関わる番組やライブ、著書でも構成を担当。
タレント・落語家

自身もタレントとして活躍。NHKの子供番組『600 こちら情報部』では戸田恵子らとともにレポーターを務める。『THE MANZAI』では景山民夫[15]と組み、「民夫くんと文夫くん」として漫才を披露した。

1983年立川談志の落語立川流Bコース(芸能人・著名人コース)に入門。立川 藤志楼(たてかわ とうしろう。「とうしろう」は業界用語の「トーシロー」=しろうとの意味)を名乗り、1988年には真打に昇進した。真打昇進後から1990年代前半に掛けて精力的に高座を務め、多くがCD化された。その後は落語家としては休業状態であったが、2006年4月中旬に約10年振りに高座に上がった。2008年から新音源によるCDシリーズを発表している。

2006年、ワザオギからCDが発売された際は紀伊国屋書店新宿本店 2階にあったCD販売店のミュージックテイトで「発売直後の週間売り上げ枚数が宇多田ヒカルを抜いた」と発表された。宇多田ヒカルが新盤の発表前であったことや、この店が落語・お笑い関係のCDやカセットテープに力を入れていることによるものである。

学生時代に青島幸男永六輔に弟子入りしようとした。永には弟子入りを志願する手紙を送るが、「僕は弟子を取るつもりはありません。お友達にならなりましょう」との返信が来て断念している。高田が放送作家になり、15年後に永に対面した際にこの件を話したところ、「今からでも遅くありません。弟子になってください」と冗談めかした手紙が後日届いたが高田は「自力でなんとかなった」と断っている[16]。2014年に「永六輔、高田文夫。幻の師弟・初のふたり会」を開催している。後に永の孫である永拓実が高田のラジオ番組にゲストに来た際は拓実が「僕を弟子にして下さい!」と直訴するも高田は「友達ならなりましょう」と返した[17]

芸人にならなかった理由として、「売れてなくても芸が下手でも年功序列で『○○兄さん』とヨイショしなければならないことが苦痛に感じるから」と語っている。

東京ボーイズに加わって舞台に立つ場合は「ニュー東京ボーイズ」となる。

たけし・逸見の平成教育委員会』第1期「生徒」として、セミレギュラー出席していた。『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』は1989年4月より放送開始。2024年現在も続くニッポン放送の長寿番組となっている。
ビートたけしとの関係

テレビ番組の構成作家をしていた1975年頃、ポール牧青空球児・好児らの薦めによりビートたけしと対面して意気投合。


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