高橋源一郎
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そして、活動家として街頭デモなどに参加する日々を送る[9]。同年11月、学生運動に加わって凶器準備集合罪で逮捕される。

1970年2月、起訴され8月まで東京拘置所で過ごす[5][10][11]。その体験が原因で一種の失語症となり、書くことや読むことが思うようにいかなくなる[12]

1972年夏、土木作業のアルバイトを始め、鉄工所や化学工場、土建会社などの肉体労働に10年ほど従事する日々を送る。

1977年3月、大学を除籍になる[注釈 3]。この頃、ハイセイコー弥生賞を偶然テレビで見たことがきっかけとなり、競馬に熱中するようになった[14]
小説家に

1979年1月8日放送の「松山千春オールナイトニッポン」(ゲスト:中島みゆきさだまさし)に触発され、文章を書くことを再開する[注釈 4]

1980年、『すばらしい日本の戦争』を第24回群像新人文学賞に応募し翌1981年、最終候補作3編のうちの1作に選ばれるが落選。『群像』6月号に掲載された選評では、瀬戸内寂聴を除く全選考委員から酷評される。このときに担当した編集者に勧められて長編小説の執筆を開始し、『さようなら、ギャングたち』を第4回群像新人長篇小説賞へ応募。この年、本賞受賞作はなく、優秀作に選ばれて1981年12月号に掲載され、『海燕』1982年3月号において吉本隆明から高評価を受け、1982年10月に講談社より刊行された。

1984年8月、『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』を中央公論社より刊行。

1985年1月、『すばらしい日本の戦争』に手を加えた『ジョン・レノン対火星人』を角川書店より刊行し、『さようなら、ギャングたち』と合わせて初期三部作とする。

1986年、山川直人監督の映画『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』の原案を担当。

1987年、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を翻訳、ベストセラーとなった。

1988年、『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞[注釈 5]

1990年の『惑星P-13の秘密』以降は1997年の『ゴーストバスターズ』まで小説の発表がなく、エッセイ、時評などを中心に執筆した。

1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人中上健次津島佑子田中康夫らと共に『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。

1997年より『群像』に『日本文学盛衰史』の連載を開始し、2001年5月に刊行。翌年伊藤整文学賞小説部門を受賞した(同年の評論部門は三浦雅士が『青春の終焉』(2001年9月)にて受賞している)[注釈 6]

2001年12月、『批評空間』第3期第2号に?秀実『「帝国」の文学―戦争と「大逆」の間』(以文叢書、2001年7月)の書評「『大逆』と明治」を発表。翌2002年1月に『批評空間』のWebサイト『Web CRITIQUE』上で高橋の書評に対するすがの批判、高橋の応答、すがの再応答が掲載されることとなった[17]

『日本文学盛衰史』以降は朝日新聞の夕刊に連載していた『官能小説家』(朝日新聞社、2002年1月)、『すばる』にて連載していた「ミヤザワケンジ全集」をまとめた『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社、2005年4月)など文学者を題材にした小説を多く発表している

2005年には親交のある批評家加藤典洋から「言語表現法」講義の担当を受け渡される形で、明治学院大学国際学部教授に就任した。

2008年、小林多喜二の『蟹工船』が再脚光を浴びたのは、同年1月9日に毎日新聞東京本社版の朝刊文化面に掲載された、高橋と雨宮処凛との対談がきっかけになったといわれる[18][19]

2011年4月から2016年3月まで、朝日新聞論説面に『論壇時評』を月一回、月末に連載。

2012年、『さよならクリストファー・ロビン』(新潮社、2012年4月)により第48回谷崎潤一郎賞を受賞。2019年1月、YouTubeチャンネルを開設[20]

2019年3月、第70回NHK放送文化賞受賞[21]。また、同月に14年間勤務した明治学院大学を定年退職した[22]

現在、すばる文学賞野間文芸賞中原中也賞萩原朔太郎賞選考委員。また日本テレビ放送番組審議会委員も務める。
競馬評論家として


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