日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
支払い能力は関税収入である。
中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロン(英語版)(デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ[6]、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。高橋是清(1934年)6度目の大蔵大臣(1934?36年〔昭和10?11年〕)
1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り[7][8]、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。高橋と斎藤実(右) ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「二・二六事件」を参照)。
その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた[9]。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。
年譜渡米時代の高橋是清(写真右側)(1867年)衆議院議員選挙に初当選後に撮影した家族との記念写真(1924年)
※日付は1872年まで太陰太陽暦
1854年(嘉永7年)閏7月27日:江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる。
1864年(元治元年):横浜のヘボン夫人家塾に学ぶ。
1866年(慶応2年):イギリス人シャンドのボーイ[要曖昧さ回避]となる。
1867年(慶応3年):渡米しオークランドで奴隷労働しながら勉強する。
1869年(明治元年)旧暦12月:帰国し森有礼家の書生となる。
1869年(明治2年)
旧暦1月:大学南校に入学。
旧暦3月:大学南校教官三等手伝。
1870年(明治3年)秋ごろ:放蕩生活に入り教官を辞める。
1871年(明治4年):唐津藩の英語学校耐恒寮の教員となる。この時の教え子に、辰野金吾、曽禰達蔵、大島小太郎、天野為之、掛下重次郎、田邊新之助らがいる。
1872年(明治5年)秋:耐恒寮の教員を辞めて上京する。駅逓寮で翻訳の仕事をするが間もなく辞職。開成学校に入学する。
1873年(明治6年)7月:文部省督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする。
1876年(明治9年)5月:官立東京英語学校教員に雇われる。
1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。
1878年(明治11年)9月:
大学予備門英語教員として雇われる。