熊本県上益城郡浜町(現山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男[3][5]。
済々黌、旧制七高造士館を経て1908年に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格[3]。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年、家督を相続する[3][6]。
その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
その後も順調に昇進を続け、滋賀県知事、長野県知事、兵庫県知事、台湾総督府総務長官等を歴任した。そして、1931年、第34代警視総監に就任。東京市内において前例のない規模の暴力団員らの摘発を指示し、その陣頭指揮をとった[7]。
退官後は熊本に帰り、1941年東洋語学専門学校理事、戦後は同校長となっている。同校は1950年、熊本短期大学となり、1954年4年制度の熊本商科大学を開校させ、初代学長になっている。同校は現在熊本学園大学となった。
1957年に死去した。 熊本市は高橋の功績を讃え、熊本市名誉市民とした。また、熊本県近代文化功労者にもなっている。 趣味は打球[6]。宗教は日蓮宗[6]。住所は熊本市北坪井町[5]、東京目黒区上目黒[6]。 ハンセン病患者の子弟の通学問題でこじれた龍田寮事件(黒髪校事件ともいう)を解決するために、ハンセン病患者の子弟3人を自宅に引き取り、問題の解決に大いに貢献した。詳細は「龍田寮事件」を参照
人物
人柄
龍田寮事件解決に貢献
備考
熊本城の近くにある「高橋公園」は、市の近代化に功績のあった彼の名からつけられたものである。
熊本学園大学には彼を記念とした「高橋守雄記念ホール」がある。
栄典
1927年6月1日 - 紺綬褒章[8]
1925年10月、熊本市教育振興資金として金1万5千円を寄付する[8]。
家族・親族
高橋家
父・彌八郎(熊本県士族)[5]
母・キツ(1859年 - ?、熊本士族、渡邊源内の四女)[5]
妻・雅(1888年 - ?、東京士族、松南千秋の妹)[5]
男・時中(1911年 - ?、銀行員)[6]
男・通敏(1914年 - 1989年、外務省勤務)[6]
同妻(大阪、新田宗一の二女)[6]
女(1917年 - ?)[6]
男(1919年 - ?)[6]
親戚
国塩耕一郎(官僚)
新田宗一(実業家) - 新田帯革製造所(現・ニッタ)会長[4]。二男の妻の父。
脚注^ 『新編日本の歴代知事』701頁。
^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1957年5月6日夕刊7頁。
^ a b c d 『帝国大学出身名鑑』
^ a b 『現代財界家系譜 第1巻』
^ a b c d e 『人事興信録 第7版』
公職
先代
人見次郎 台湾総督府総務長官
第12代:1931年次代
木下信
先代
佐柳藤太 熊本市長
第7代:1922年 - 1925年次代
辛島知己