高松塚古墳
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壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前(南側)から男子群像、四神のうちの青龍、その上に日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前(南側)から男子群像、四神のうちの白虎、その上に月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている[7]。人物群像は一部を除いて道具を携えていた。女子が如意(にょい)・円翳(えんえい)・払子(ほっす)を、男子が胡床(こしょう)・毬杖(ぎっちょう)・蓋(きぬがさ)・武具・鞄を持ち、それらは「貞観儀式」にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。

奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと考えられている。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。

東西の日月は、その手前に雲海に浮かぶように聳え立つ山々が描かれている。日には金箔が、月には銀箔が貼られていた痕跡があった。発掘調査時には、その大部分が失われており、鎌倉時代などの盗掘者によって人為的に削り取られたものと考えられている。

壁画について、発掘当初から、高句麗古墳群世界遺産)と比較する研究がなされている[8]。四神はそもそも高句麗様式の古墳に特徴的なモチーフであるが、高松塚古墳およびキトラ古墳では高句麗の画風とは異なった日本独自の画風で四神図が描かれていることが指摘されている一方で、天空図に関しては、高句麗から伝来した原図を用いた可能性が指摘されている[9]。また、女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている[10]

石室に安置されていたは、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかった。石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていたが、副葬品や棺の一部が残っていた。出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、海獣葡萄鏡、玉類(ガラス製、琥珀製)などがある。中でも隋唐鏡の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られる。

壁画全景(複製)
関西大学博物館高松塚古墳壁画再現展示室展示。

文化財
特別史跡

高松塚古墳

国宝

高松塚古墳壁画 4面

重要文化財

高松塚古墳出土品

一、棺関係遺物

金銅製透飾金具 1箇

金銅製円形飾金具 6箇

金銅製六花文座金具 2箇

銅製座金具 6箇

銅製角釘 一括

漆塗木棺破片 一括


一、銀荘唐様大刀金具類 9箇

一、海獣葡萄鏡 1面

一、玉類

ガラス製粟玉 936箇

ガラス製丸玉 6箇

琥珀製丸玉 2箇


附:土器類(土師器、須恵器、瓦器等)一括



壁画の劣化、今後の課題

発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかにされた。

高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになったのは、文化庁が2004年6月に出版した『国宝高松塚古墳壁画』により現状が明らかになり、新聞で大々的に報道されてからである。1972年の壁画発見当時、石室内には南壁の盗掘孔から流れ込んだ土砂が堆積しており、東壁の男子群像の右半分など、土砂や地下水の影響で画面が汚染されている部分もあったが、壁画の大部分には鮮明な色彩が残されていた。これらの壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているが、漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていた。また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化、カビ、虫などの生物による壁画の劣化が懸念された。劣化をいかに食い止め、壁画を後世に伝えていくかについては、発見当初からさまざまに検討されていた。

石室は大人2人がかがんだ姿勢でようやく入れる程度の広さしかなく、スペースの点だけを考えても、現地での一般公開は到底不可能であった。石室内は相対湿度が100%近い高湿の環境であり、修理や調査のために人が短時間石室内に入っただけでも温度の上昇と湿度の低下をもたらした。壁画の保存方法については内外の専門家からさまざまな意見が出され、石室から壁画を剥がして別途保存する方法を含め、さまざまな案が検討されたが、最終的には石室は解体せず、壁画は現地で保存することに決した。

その後、石室南側の前室部分に1974年から空調設備を備えた保存施設の建設が始まり、1976年3月に完成をみた。この保存施設は前室、準備室、機械室からなり、石室内部の温湿度をモニターしつつ、前室内の温湿度をそれに合わせて調整するものである。留意すべき点は、この保存施設は、古墳の石室内の温湿度を直接的に制御するものではなく、石室内の自然の温湿度の変化に合わせて前室の温湿度を調整しているという点である。つまり、点検修理等のために石室に人が入る際に、外部の温湿度の影響を受けないように、保存施設内の温湿度をあらかじめ石室内と同様の条件に調整する役目をもっている。壁画の保存修理工事は1976年9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、1985年をもって第3次修理が終了している。この間、1980年にカビの大量発生をみるが、この時は薬品等を用いた除去策が功を奏した。

次にカビの大量発生をみたのは2001年である。同年2月、石室と保存施設との間の取合部(とりあいぶ)と呼ばれる部分の天井崩落防止作業を行った際、作業員が防護服を着用せずに入室したことが、結果的に大量のカビ発生につながったと指摘されている。「取合部」とは、保存施設と石室の境の、土がむき出しになっている部分である。壁画の劣化はこの時に突如始まったものではなく、徐々に進行していたものであるが、文化庁がカビ発生や壁画劣化の事実を公表していなかったため、国民の不信を招くこととなった。

その約1年後の2002年1月28日に西壁の損傷事故が起きた。この日、修復に当たっていた担当者の一人が誤って空気清浄機を倒し、西壁男子群像の下の余白に傷をつけた。同日、別の担当者が室内灯に接触し、西壁男子像の胸の部分の漆喰が剥落した。この2つの事故のうち、前者は絵のない余白部分についた傷であり、後者は壁画発見当時から流入土砂で汚損され、オリジナルの彩色が残らない部分であったため、石室外の土を水で溶いたもので修理がなされ、文化庁では「通常の修理」の範囲内であるとして、これらの事故を公表していなかった。

2003年3月、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置され、翌2004年6月には「緊急」を「恒久」に変えた国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足した。


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