高村光太郎
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この光太郎の命日(4月2日)は、生前アトリエの庭に咲く連翹(れんぎょう)の花を好んで[11][12]おり、彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていた[11][13]ことから連翹忌と呼ばれている。

生前から光太郎との親交が厚かった草野心平は光太郎の死を受けて翌4月3日付の『朝日新聞』に「高村光太郎死す」と題する詩を寄稿した[14]。なお「高村光太郎死す」は新潮文庫版『智恵子抄』の解説で心平が生前の光太郎との交流について綴ったエッセイ「悲しみは光と化す」及び、1969年に刊行された心平のエッセイ集『わが光太郎』[15]にも収録されている。
妻・智恵子との結婚生活「高村智恵子」も参照

1914年(大正3年)に智恵子と結婚して以来24年に亙った結婚生活は光太郎にとって「なまなましい苦闘」[16]の日々であった。

もともと油絵を志した彼女だったが、自信を持って文展に出展した作品が落選したこと、そして光太郎の創作活動を支えるため、徐々に自分の創作活動を控えて家事に専念するようになったことで自らの油絵の研鑽に行き詰まり、やがて油絵製作に絶望する。更に彼女の郷里・二本松の大火、実父の死去、それに続く実家の破産が心痛苦慮に一層の拍車をかけ、1932年(昭和7年)の催眠薬アダリンによる自殺未遂へと至る。その後の智恵子は一進一退の時期が続くが、しだいに幻覚が現れ、更には意識もぼんやりするようになり、光太郎が智恵子の食事や入浴などの介助をするようになる。ちゑ子は一時かなりよくなりかけたのに最近の陽氣のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を盡したが醫者と相談の上やむを得ず片貝の片田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送って来ました。小生の三年間に亙る看護も力無いものでした。… ? 昭和9年(1934年5月9日水野葉舟に宛てた光太郎の手紙より[17]

当初更年期の諸症状とみた光太郎は智恵子を九十九里海岸の親族のもとに転地療養させたことで身体は丈夫になり朦朧状態こそ脱したが、精神の変調はむしろ進んだ。1934年(昭和9年)には父・高村光雲が死去、その遺産を智恵子の療養費に充てるようになる[17]。そして智恵子を再びアトリエに引きとったが、彼女の病勢は「まるで汽缶車のように驀進」[16]し、狂暴行為へと進む。一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、… ? 昭和10年(1935年1月8日中原綾子に宛てた光太郎の手紙より[18] もう足かけ三年小生は制作欲を殺してゐます、昭和七年七月十五日にちゑ子が突然アダリン自殺を企てた時以来のちゑ子の変調で小生の生活は急回転して勉強の道が看護の道に変わりました、研いだや小刀皆手許から匿してしまひました、小生は木彫が出来なくなりました。… ? 昭和10年(1935年)1月11日中原綾子に宛てた光太郎の手紙より[19]

智恵子の置かれた過酷な状況は、光太郎にとって生活や仕事の一切を犠牲にすることを余儀なくされた。そして自宅療養もいよいよ限界となり、1935年(昭和10年)2月、知人の紹介で南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させた。その後、看護師となっていた智恵子の姪・春子の助けを得ながら1938年(昭和13年)10月5日、同所で智恵子を看取ることになる。

智恵子との死別後、光太郎は『智恵子の半生』の中で次のように振り返っている。もつと別な生活を想像してみると、例へば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のやうな美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事してゐるやうな者であつた場合にはどうであつたらうと考へられる。或はもつと天然の寿を全うし得たかも知れない。… ? 『智恵子の半生』高村光太郎[16]
人物

ニューヨーク留学以前はユージン・サンドウが世に広めた「サンドウ式体操」で肉体を鍛えた。ニューヨーク留学時に通学した芸術学校のクラスメイトが頻繁に光太郎の作品に悪戯をした。これに光太郎は立腹したが、レスリング経験のある主犯格の男と教室を舞台に高村は柔道の試合スタイル、相手の男はボクシングのスタイルで試合をすることとなった。光太郎はサンドウ式体操で鍛えた腕力で相手の男を締め上げ、それ以降クラスメイトからの悪戯はなくなった。晩年「作品への悪戯がなくなり幸いであった」と懐述している。
主な著作.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに道程の原文があります。ウィキソースに春駒の原文があります。
詩集


道程

智恵子抄

大いなる日に

をぢさんの詩

記録

典型

智恵子抄 その後 - 詩文集

典型以後 - 没後刊行

猛獣篇 - 没後刊行

歌集


白斧

美術評論


印象主義の思想と芸術

美について

造形美論

随筆


某月某日

独居自炊

山の四季

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