高杉晋一
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1910年(明治43年) - 土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)[1]。
第二高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。
1917年(大正6年) - 三菱合資銀行部に入社。
1947年(昭和22年)1月 - 三菱電機社長。
1956年(昭和31年)11月 - 三菱電機会長。
1965年(昭和40年)6月 - 日韓会談の首席代表として日韓基本条約等に調印。
1969年(昭和44年) - 海外経済協力基金総裁。
1978年(昭和53年) - 86歳で死去。墓所は青山霊園。
名言
世の中の人はそれぞれ思想も好みも違う。部下の意見を好んで聞く人もあれば、聞くのを嫌がる人もいる。人間というものは自分の個性を殺してまで人に迎合する必要はなかろう。なにごとも私心を挟まない限り、正々堂々と自分の意見を述べるのに遠慮はあるまいと思う。
私はつねに「人生は最後の一線において勝負する」と考えている。どんな人でも、運命を決めるような最後の一線があると思う。そのときはまずハラを決めて、断固たる決意で立ち向かうことだ。
栄典
1965年(昭和40年)11月3日 - 勲一等瑞宝章[2]
脚注^ “ ⇒【土浦一高東進会長挨拶】”. 土浦一高 東進会. 2021年4月13日閲覧。
^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
先代
川井源八三菱電機会長
1956年 - 1962年次代
関義長
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