高木渉
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「どうしようか」と迷い、「これはチャンスなのかもしれない」と思い、「アニメの収録現場を知りたいので、どこか番組収録を見学させていただくことはできませんか?」、「養成所以外の外の世界を見てみたいのですがダメでしょうか?」と聞いてみたところ松田は「君が興味あるのだったら電話してきなさい」と名刺をもらい、「これこそチャンスだ!!」と思い、翌日から何度もアーツビジョンに電話を掛けていた[17]。当初は事務所の関係者には断られ、何回か電話しているうちに『ミスター味っ子』の収録現場の見学を許されることになり、スタジオに通っていた[8][9]

見学を終えて帰り際に挨拶をしていたところ、その現場で出会ったキャスティングも携わっていたたてかべ和也に「君は、来週は来ないのか?」と言ってきて、当然見学は1日しか許されないだろうと思っていたため、「へえっ!? 来週も来ていいんですか?」と聞いていた[8][9][18]。その時に「1日だけの見学で何がわかるんだ。やる気があるなら最後まで来なさい」と言ってもらって、ものすごくうれしく、結局、長く続いた番組なため、1年半毎週見学をすることになった[8][17]。毎週スタジオに早めに行き、皆のお茶を作ったり、灰皿を用意したり、後片づけをしたり、何か仕事を見つけながら見学し続けていた[8][18]

当時、見学者は高木だけで毎回ゲストキャラがあるような番組だったため、初めはガラスの向こうで、スタジオの中にいる、たくさんの声優の芝居を見ることができた[8][17]。続けて行っているうちにだんだん欲が出てきて、「何か手伝いをすることがないか?」など音を出さない事を条件に、次はスタジオの中で見学をさせてもらえた[8][17]

ある時たてかべに「ガヤやってもいいですか?」と聞いたところ、「俺はお前にガヤをやれとは言えない。何故ならお前に出演料を払わなくてはいけなくなるからね」、「ただ、渉がガヤをやってたとしても俺は見て見ないふりをするよ」と言ってもらい、ガヤを演じてもらうことになり[17]1987年テレビアニメ『ミスター味っ子』で声優としてデビューする[8][9](デビューした年を「1988年」と表記している資料もある[19])。

見学を始めて1年程経ったある時、実況アナウンサー役を演じる予定だった龍田直樹が、喉を壊した時に、「後日抜き録りする」という事で帰った[17][18]。その時は、恐れ多くも「その役、僕にやらせて下さい」と言ってしまった[17]。皆に「えっ?」と言われたが、「渉のためにテストだけやらせてあげるよ」ということにしてくれた[17][18]。テストが終えた後に「じゃ本番もやっちゃおうか」という具合で本番をしてくれた[17][18]。当時は時間は掛かったが、先輩が付き合って下さったと語る[17]

後で龍田から「渉、俺の役とったな。ギャラは俺に入ってくんだろうな?」と言われたが、龍田にも可愛がってもらい、そういう感じで、産声あげていたという[18]

最初にオンエアーを見ていた時は「自分の声じゃない」と思い、あまり下手くそだったことから「差しかえられた」と思っていた[17]。最後のテロップで「高木渉」と表示され、「ようやく自分なんだ」と再確認したぐらいだった[17]

『ミスター味っ子』の現場は、高木の原点であり、周囲の先輩にも恵まれ、スタッフの皆とも2005年時点でも会うと当時の話を良くするという[17]。作者の寺沢大介も2005年時点では『劇団あかぺら倶楽部』の舞台を観に来てくれるという[17]
キャリア

以後、アニメ吹き替えに多数出演している。

デビューした1980年代後半から1990年の頭はバブル時代だったこともあり、先輩について行って飲み屋で芝居の話や仕事のことなど色々話を聞かせてもらっていた[8]。「次はお前が後輩をおごっていくんだぞ」と言いながらずいぶんおごってくれた[8]。監督も「お前はヘタクソだなぁ」とか言いながらもキャスティングしてくれて、随分育ててくれた[8]

芝居を続けていく上で壁にぶつかるようなことはそれなりにあったが、「苦しい」とは思わなかったという[20]。「やりたい」と思っている仕事だったため、「その都度これを越えなきゃ」と語る[20]

引き出しが無いことからなかなか思い通りに芝居が出来ないと言う事はあった[20]。しかし「少しずつ引き出しを作っていけばいいのかな」と語り、2005年時点では引き出しはいっぱいあるが、ひとつしか開かないという[20]

芝居を観に行ったりしており、2005年時点ではなにか牽引されていくように「あんな風になりたいなぁ」と芝居を、「いっぱい観たい」と思っているという[20]

昔は演出家に言われたことが全然理解できない時は現場でコミュニケーションを取っている間に徐々に相手の言っていることが理解出来てくることもあった[20]。どうしても通じない時は断念して、「自分の中では解消しきれていないけれども、形からでも良いから、なるべく演出が求めるものをやってみよう」と色々していた[20]。2005年時点では演出家としつこいぐらいに積極的にコミュニケーションを取りたいと語っている[20]

客観的になれることから高木自身のオンエアーは必ず見ていた[20]。それで、2005年時点では「もっとこうすれば良かった」、「今度はこうしよう」など研究できるという[20]

声優だけでは生活も苦しかったため、アルバイトもしており、声優の仕事を入れるように、夜新幹線のおにぎり作りのアルバイトをしていた[8]

声の仕事がだんだん増えてくると、夜中も仕事してるものだったことから眠くなってきて頭もボーっとしてきて、思い切ってすべてのアルバイトを辞めた[8]。無収入になると、「絶対に役者として食べていかなくては」という覚悟ができ、売るために毎日のように事務所に行っていた[8]

当時はバトルもの、ヒーローものが流行しており、怪獣役、雑魚キャラ役を演じたりしていた[8]。番組レギュラーで、村人A、町人Bなど毎回違う役を演じ、週8本レギュラーをもってた時期もあった[8]。1、2年もすると番組レギュラーも卒業で今度は少しずつ名前のある役がもらえるようになったが、新人ではなく、その役が出てこなければスタジオにも用がないわけだったことから、以前に比べてガクンと仕事が減っていった[8]。「生活していけるのか、自分自身に役者としての魅力はあるのか?」と不安になる日が続いていた[8]

初めてオーディションに受かった作品は『緊急発進セイバーキッズ[8]。その後、主役も何本か演じるようになったが、自分で考えすぎて空回りしたり、周囲への気遣いが足りなかったり、大変だったが、看板番組というのはやりがいがあり、1本の作品を作るという意味でもとても勉強になったという[8]

2002年山口勝平関智一と共に、「さんにんのかい」という3人芝居のユニットを結成した[4][20][21]。このように、声優だけでなく舞台俳優としても活動しており、『劇団あかぺら倶楽部』の代表も務めている[4]。「声優の道を歩んでいくんだろう」と思っていながら元々舞台は好きだったため、同学院卒業後、同期の仲間達と一緒に同劇団を結成したという[13]

あかぺら倶楽部を立ち上げる時は水鳥鐵夫に当初から演出をお願いしていたが、「劇団は学校じゃないんぞ…」と断られていた[13]


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