高度経済成長
[Wikipedia|▼Menu]
順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。

しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した[注釈 3]。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。

こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。
いざなぎ景気で大阪万博へ(1966?1970年)

1965年10月からいざなぎ景気が始まり、1966年から再び年10%以上の成長期となった。

1967年10月には所得倍増計画を達成。

1968年には日本の国民総生産(GNP)が、同じく敗戦国の西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。

終戦25周年記念として大阪万国博覧会大阪府吹田市1970年3月から半年間開催されることになり、いざなぎ景気は大阪万博への特需を迎えた。

大阪万博特需として、大阪中央環状線開通(1968年3月)、東名高速道路開通(1969年5月)、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の新線整備等が行われた。

日本が債権国となった1960年代後半には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した[4]
石油危機と高度経済成長の終わり(1971?1973年)

1971年(昭和46年)8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)による実質的な円の切り上げ、変動相場制移行は国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。

1972年は3月に山陽新幹線岡山開業、5月に沖縄復帰を実現した。

1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。
環境問題

経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった四大公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。[5]

また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年佐藤栄作内閣による公害対策基本法の制定や1971年環境庁の発足、1972年田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。
各国での例

メキシコの奇跡(Mexican miracle
) - 1940年代から1970年代にかけてのメキシコの経済成長

経済の奇跡(Wirtschaftswunder) - 第二次世界大戦後から1970年代にかけての西ドイツオーストリアの経済成長(日本同様第二次世界大戦の敗戦国)

栄光の三十年間(Trente Glorieuses) - 第二次世界大戦後から1973年までのフランスの経済成長

スペインの奇跡(Spanish miracle) - 1959年から1973年にかけてのスペインの経済成長

イタリア奇跡の経済(Miracolo economico italiano) - 1950年代後半から1960年代にかけてのイタリアの経済成長(第二次世界大戦の敗戦国)

ギリシャの奇跡(Greek economic miracle) - 1950年から1973年にかけてのギリシャの経済成長

東アジアの奇跡 - 香港台湾大韓民国シンガポールマレーシアタイ王国インドネシアなどのの経済成長

台湾の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての台湾の経済成長

漢江の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての韓国の経済成長


フェリックス・ウフェ=ボワニ - 1960年代から1970年代にかけてのコートジボワールの経済成長

ブラジルの奇跡(Milagre economico) - 1968年後半から1973年にかけてのブラジルの経済成長

チリの奇跡 - 1974年から1983年1985年1990年にかけてのチリの経済成長

改革開放(Chinese economic reform)- 1978年から続く中華人民共和国の経済成長

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 高度経済成長期の期間は公的に定められていないので、経済学者や専門家などで人それぞれの考え方によって期間の違いはある[要出典]。
^ この方針は、その後吉田の後継者たちに継承され、「吉田路線」もしくは「吉田ドクトリン」として定着した。
^ この周辺の経緯を基にしたのが「華麗なる一族」である

出典^ 第2版,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及, 百科事典マイペディア,世界大百科事典. “高度経済成長とは”. コトバンク. 2022年3月12日閲覧。
^ “戦後日本の安全保障と「9条・安保体制」” (PDF). 防衛研究所 (2020年4月28日). 2023年2月3日閲覧。
^ “1960年9月7日 池田首相が所得倍増計画”. 日本経済新聞 (2013年9月2日). 2022年3月25日閲覧。
^ 草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P 265-266
^ “高度経済成長と公害の激化(1965?1974年:昭和20年?30年代)|日本の大気汚染の歴史|大気環境の情報館|大気環境・ぜん息などの情報館|独立行政法人環境再生保全機構”. www.erca.go.jp. 2022年7月9日閲覧。

参考文献

1958年?1962年 岩戸景気→転型期不況(転換型不況、昭和37年不況)について (内閣府)


"Japan - Miracle in Asia(日本-アジアの奇跡)" (1963年) 関連項目


吉田茂


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef