天武天皇14年(685年)1月21日、冠位48階の制が定められたとき、高市皇子は浄広弐の位を与えられた。天武天皇の皇子の中で草壁皇子、大津皇子に次ぎ3番目であった。
朱鳥元年(686年)1月2日、天武天皇は大極殿で宴をした。このとき天皇は無端事(なぞなぞ)を問うので正しく答えれば褒美を与えると言った。高市皇子は正しく答え、蓁措(榛染め)の衣を3、錦の袴を2、?(あしぎぬ)20匹、糸50斤、綿100斤、布100端を得た。
天武天皇8年(679年)8月2日に親王以下に封戸が授けられており、このときに封戸(600戸か)を認められていたはずである。書紀には朱鳥元年(686年)8月13日に、高市皇子は草壁皇子、大津皇子とともに400戸の封戸を加えられたことが見える。 天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨御した。そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた?野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨御まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。 持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。 持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封を2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。 持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱
太政大臣
持統天皇10年(696年)7月10日薨御。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。一方で、キトラ古墳か高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。 『万葉集』巻第2の199?202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、『万葉集』中最長の壮大な挽歌が収められている。ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。この尊称から彼が立太子されていたのではないかとの説がある。 また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない[要出典]。「後皇子尊」ともあるがはっきりしない。 天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘(宗形徳善の娘)を母とする。正妃は天智天皇皇女・御名部皇女(元明天皇の同母姉)。子に長屋王、鈴鹿王、河内女王、山形女王。また『万葉集』によれば、異母妹・但馬皇女が邸内にいたことから、高市皇子の妻または養女とも考えられている。また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた[6](または、恋人、夫婦であった)とする説もある。
挽歌
高市天皇説
高市皇子に関する歌
万葉集巻第2 156?158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)*自作の歌はこの3首のみ
万葉集巻第2 199?202番(柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌)
系譜
父:天武天皇
母:胸形尼子娘(宗形徳善の娘)
妃:御名部皇女
男子:長屋王(684?-729)
妃:但馬皇女?
生母不詳の子女
男子:鈴鹿王(?-745)
男子:門部王[5]
女子:山形女王(?-745)
女子:河内女王(?-779)
女子:檜前女王?
系図
34 舒明天皇
古人大兄皇子 38 天智天皇
(中大兄皇子) 間人皇女(孝徳天皇后) 40 天武天皇
(大海人皇子)
倭姫王
(天智天皇后) 41 持統天皇
(天武天皇后) 43 元明天皇
(草壁皇子妃) 39 弘文天皇
(大友皇子) 志貴皇子 高市皇子