山町(山町筋)は豊臣秀吉の御所車(山車)を加賀藩2代藩主前田利長より与えられ保有する由緒ある10ヶ町で、土蔵造りの建造物が多く残る町である。山町は利長が高岡城の城下町として開町し、利長死後3代藩主前田利常が商工業都市として発展させた町だか、高岡の町では1900年(明治23年)に大火災がおこり、山町(山町筋)の大部分が被災した。その中でも元々あった土蔵造り2軒が焼け残ったため、その後旧北陸道沿いと、その周辺の建物は防火構造の土蔵造りにせよとの富山県の法令によって、旧北陸道沿いの山町(山町筋)に土蔵造りの家屋が多く建てられた。2000年(平成12年)12月4日には、「高岡市山町筋伝統的建造物群保存地区」の名称で国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている。
木舟町の重要文化財「菅野家住宅」や、小馬出町の高岡市指定文化財「高岡市土蔵造りのまち資料館(旧 室崎家住宅)」では、土蔵造りの商家を一般公開(ともに有料)している。
山車と獅子頭(獅子舞)を保有する10か町 昭和前期まで御車山を保有しない9町によって神輿や山車の露払いのため、大旗を先頭に母衣武者行列が行われていたが、現在では6町で祭礼時に設けられる母衣宿に、母衣武者や旗を飾り神輿や山車を迎え入れる形となっている。 山車は保有しないが、山車を先導する源太夫(げんだい)獅子を保有し露払いのため獅子舞を舞う。獅子舞は小さな獅子頭を紋付・袴姿の3人でゆったりと舞うもので、頭を操る人は幕を被らないで操る。獅子頭は1983年(昭和58年)に古くからの言い伝えを元に復元再興されたもので、古くは二上の村落が運営していたが、復元を機に坂下町によって執り行われることとなった。復元には二上射水神社の築山行事で使用される富山県内最古の獅子頭といわれる源太夫獅子を元としている。前述のとおり1991年(平成3年)には、言い伝えを裏付ける山車を先導した様子を描いた1883年(明治16年)当時の「越中国高岡関野神社祭礼繁昌略図」が見つかった。 高さ約8.4m?9m、長さ2.29m?2.85m〔前後の轅(ながえ)間5.07m?5.89m〕の山車は御所車に心柱を立て、心柱の上部には竹籠を付け、その周りに3色の和紙で出来た菊の花を5個付けた割竹32?36本を放射状に広げた花傘の鉾山で、花山車とも言われ京都祇園祭の山鋒より由来、伝承されたものであるといわれているが、形態が独特でかなり異なっておりルーツは定かではない。 飾り山(上層)と地山(下層)の2層構造で飾り山には本座といわれる御神体(人形)を供え、地山箱(下層)には幔幕(まんまく)が張られ、この中に囃し方が数人入り、笛、鉦、太鼓を用い優雅な囃子を奏でる。山車は高岡の工芸の粋を集めた彫刻、漆工、彫金、などの装飾を纏い、後部には町名入りの標旗が立てられ、桜の花の送り花が飾られている。また、本座後部に後塀(こうへい)を設けた山車もある。 鉾(心柱)の先端には鉾留が付いており、これは神が山車に供えられている御神体(人形)に降臨するための目印とされている。 車輪は4輪の大八車(外車)様式の輻車(やぐるま〔スポーク式〕)で直径1.60m?1.67m、車輪にも漆や彫金などが施されている。二番町の山車だけは二輪で2.05mある。富山県内の曳山では大門曳山の枇杷首の曳山とここ二番町だけである。 各山車には、鈴棒(りんぼう)といわれる錫杖を原型としたものを引きずり、山車の警護と巡行路を浄める鈴棒引きを先頭に、2名の役員と町衆が紋付・袴に麻裃を着け、頭には一文字笠、足元は白足袋に草履といういでたちで山車の前後左右に供奉する。なお、鈴棒引き、曳き手・囃し方は山町の人達ではなく近郊の町の人達であり、囃し方は特定の町の人達で受け継がれる世襲制である。また、曳き手衣装の半纏(法被)は袖と裾に中綿が入った厚手のもので、鈴棒引きの衣装を含め、各町意匠を凝らした模様が染められている。また足元は白足袋に昔ながらの草鞋を着用している。 1904年(明治37年)まで隔年で提灯山を出していたが、町に電線が引かれる様になりそれ以降中止された。 富山県内で最も早く創建された御車山の山車様式は、のちに富山県西部の各地で創建された曳山に影響を与え、今日も御車山様式の曳山が多く現存している(放生津〔新湊〕・海老江・伏木〔けんか山〕・石動・大門・福野〔夜高祭〕・氷見〔祇園祭〕)。 安永の曳山車騒動は、1775年(安永4年)に高岡(御車山)と放生津(新湊)曳山の間でおこった、車輪(曳山車)を巡る騒動で、その後の加賀(主に現在の富山県西部)、越中各地の曳山祭りならびに曳山の発展に多大な影響を与えた大事件である。 高岡御車山の7基の山車は、豊臣秀吉が使用した御所車を前田家より拝領し山車へ改造した特別な由緒正しい山車とされるため、高岡側は1762年(宝暦12年)近隣の町が御所車と同じような大八車(外車)様式の輻車(やぐるま〔スポーク式〕)の曳山を曳こうとしていたところ、加賀藩に抗議し中止を認められ、それ以降同じ様な山車(曳山車)を曳き回す事は認めない事を取り付けていた。
通町(とおりまち)、御馬出町(おんまだしまち)、守山町(もりやままち)、木舟町(きふねまち)、小馬出町(こんまだしまち)、一番街通(いちばんまちどおり)この山車だけが「源平町」「三番町」「一番町」の三町で共有されている。二番町(にばんまち)
坂下町(さかしたまち) 源太夫(げんたい)獅子を保有。
母衣宿
獅子舞
坂下町(さかしたまち)
形状: 箱獅子
分類: 行道獅子
山車御馬出町の御車山(2015年4月)木舟町の御車山(2015年4月)
通町(とおりまち)
鉾留: 鳥兜
本座: 布袋和尚
相座: カラクリを施した唐子人形5体。中央の1体が回転棒を握りでんぐり返しをする。
幔幕: 白羅紗地剣梅鉢紋 本金糸刺繍
囃子: 越天楽・青海波(囃し方・二塚)
通町御車山交流館
通町の山車に関する資料や御車山祭の紹介、組み立て作業の紹介パネル、現在使われなくなった車軸などを展示している。2009年(平成21年)12月27日に開館した。土曜・日曜、祝日の午前9時から午後5時まで開館[10]。
御馬出町(おんまだしまち)
鉾留: 胡?(やなぐい)に弓矢
本座: 佐野源左衛門
幔幕: 仙境図綴錦織
囃子: 慶雲楽(囃し方・江尻)
本座人形の前には松と梅の鉢と木が飾られている。
守山町(もりやままち)
鉾留: 五鈷鈴(ごこれい)
本座: 恵比須
幔幕: 緋羅紗地暈繝波濤模様 絹糸刺繍一部金糸隈取
囃子: 振舞(囃し方・石塚)
木舟町(きふねまち)
鉾留: 胡蝶(こちょう)
本座: 大黒天
相座: カラクリを施した唐子人形1体。太鼓を叩く。
幔幕: 朱地綴織宝珠模様刺繍
囃子: 胡蝶(囃し方・横田)
小馬出町(こんまだしまち)
鉾留: 太鼓に鶏
本座: 猩々(しょうじょう)
相座: カラクリを施した猿人形1体。太鼓を叩きながら下顎を動かし、頭を前・左右に振る。
幔幕: 春秋舞楽図綴織
囃子: 迦陵頻(囃し方・米島)
一番街通(いちばんまちどおり)
鉾留: 釣鐘
本座: 尉(じょう)と姥(うば)
幔幕: 朱地綴織剣梅鉢紋 本金糸刺繍
囃子: 桃李花(囃し方・萩布)
本座人形の前には「相生の松」が飾られている。
二番町(にばんまち)
鉾留: 桐
本座: 千枚分銅(唯一人形ではない)
唐垣地幕: 緋羅紗地剣梅鉢紋 本金糸刺繍
囃子: 還城楽(囃し方・枇杷首)
高さ 約9m、重さ 約2.5t
本座人形は存在せず、屋台前部に守護神を熊野権現とする熊野神社の、朱塗りで二羽の烏が留まる鳥居が据えられている。
7基の山車の内、唯一車輪が二輪である(直径 2.05m)。
毎年4月30日の宵祭りに二番町のみが行う、祭神を関野神社より同町の山車に迎える神事「遷宮の儀」が執り行われる。子供達が馬上提灯を手に、町役員が長持ちを担ぎ同神社に出向き神事を執り行った後、「道楽(みちらく)」という、町役員がご神体を担ぎ町内まで練り歩き、山宿にて「遷座式」を行い神様を迎え入れる[11][12]。
安永の曳山車騒動と津幡屋与四兵衛
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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