高岡市
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市内の地区は以下の通り[11]
平米(ひらまい)
人口2,934人。市中心部の一角で、高岡古城公園北側の地区。高岡市役所がある。
定塚(じょうづか)
人口9,171人。市中心部の一角で、高岡古城公園南側の地区。JR西日本およびあいの風とやま鉄道高岡駅がある。
下関(しもぜき)
人口8,967人。1925年(大正14年)に編入された旧射水郡下関村瑞龍寺がある。
博労(ばくろう)
人口10,176人。市中心部の一角で、高岡駅西側の地区。
横田(よこた)
人口5,170人。1928年(昭和3年)に編入された旧射水郡横田村。あいの風とやま鉄道高岡やぶなみ駅がある。
西条(さいじょう)
人口6,546人。1928年(昭和3年)に編入された旧射水郡西条村
川原(かわら)
人口3,032人。市中心部北側の地区。
成美(せいび)
人口7,393人。市中心部北側の地区。高岡市民病院がある。
二上(ふたがみ)
人口2,388人。1933年(昭和8年)に編入された旧射水郡二上村富山大学高岡キャンパスがある。
能町(のうまち)
人口11,483人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡能町村。JR能町駅がある。
牧野(まきの)
人口9,590人。1951年(昭和26年)に編入された旧射水郡牧野村
野村(のむら)
人口17,915人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡野村。住宅地が広がり、市内最大の人口を抱える。
二塚(ふたつか)
人口3,465人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡二塚村北陸新幹線新高岡駅がある。
佐野(さの)
人口7,039人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡佐野村
福田(ふくた)
人口2,949人。1949年(昭和24年)に編入された旧西礪波郡福田村
小勢(おぜ)
人口840人。1954年(昭和29年)に編入された旧西礪波郡小勢村
立野(たての)
人口3,114人。1955年(昭和30年)に編入された旧西礪波郡立野村。あいの風とやま鉄道西高岡駅がある。
東五位(ひがしごい)
人口4,662人。1953年(昭和28年)に編入された旧西礪波郡東五位村能越自動車道高岡インターチェンジがある。
石堤(いしつつみ)
人口1,067人。1953年(昭和28年)に編入された旧西礪波郡石堤村
国吉(くによし)
人口3,139人。1951年(昭和26年)に編入された旧西礪波郡国吉村
守山(もりやま)
人口2,333人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡守山村。能越自動車道高岡北インターチェンジがある。
伏木(ふしき)
人口9,983人。1942年(昭和17年)に編入された旧射水郡伏木町。市北部の中心地。富山県内で最も早く開けた地で、古代は越中国国府が置かれた。JR伏木駅伏木港があり、高岡の外港として栄え、化学工業製紙業が盛ん。
太田(おおた)
人口2,245人。1953年(昭和28年)に編入された旧氷見郡太田村。旧氷見郡で唯一氷見市でなく高岡市に属する。景勝地として知られる雨晴海岸がある。
戸出(といで)
人口13,162人。1966年(昭和41年)に編入された旧西礪波郡戸出町。市南部の中心地。JR戸出駅高岡法科大学がある。
中田(なかだ)
人口5,640人。1966年(昭和41年)に編入された旧東礪波郡中田町
福岡(ふくおか)
人口2,955人。2005年(平成17年)に高岡市と合併した旧西礪波郡福岡町の中心部で、町村制施行当初から福岡町だった地区。あいの風とやま鉄道福岡駅がある。
山王(さんのう)
人口3,786人。1940年(昭和15年)に旧福岡町と合併した旧西礪波郡山王村
大滝(おおたき)
人口2,359人。1940年(昭和15年)に旧福岡町と合併した旧西礪波郡大滝村。能越自動車道福岡インターチェンジがある。
西五位(にしごい)
人口1,754人。1954年(昭和29年)に旧福岡町と合併した旧西礪波郡西五位村
五位山(ごいやま)
人口320人。1954年(昭和29年)に旧福岡町と合併した旧西礪波郡五位山村。高岡市西端の山間地である。
赤丸(あかまる)
人口1,064人。1954年(昭和29年)に旧福岡町に編入された旧西礪波郡赤丸村
歴史明治時代の田園風景

古代、現在の高岡の郊外は、越中国国府であり、そのため、746年に国守として大伴家持が赴任し、在任した五年間にとても多くの秀歌を残した。これは、高岡市が“万葉の里”と呼ばれる由来であり、現在も行われている高岡万葉まつりのメインイベントである万葉集全20巻朗唱の会にも受け継がれている。

近世になると、1609年に加賀前田家2代当主前田利長高岡城に入り、“高岡”の町(現在の高岡市中心部)が開かれる。それまでのこの一帯は「関野」(せきの)または「志貴野」(しきの)と呼ばれていた。今も関野神社富山県立志貴野高等学校などに名前が残る。この1609年の開町により、近世高岡の文化が始まる。開町の当時は、5,000人にも満たない人々で町が構成され、城の周囲や南の台地に、侍屋敷が配置されていた。だが、1615年一国一城令により高岡城は無くなる。当時「城の無い城下町は衰退していく」と言われていたが、3代当主前田利常の「高岡の人々の転出を規制し、商業都市への転換を図る」という政策が功を奏したため、高岡は発展の道を辿り始め、高岡の“商工業の町”としての歴史が始まっていく。高岡銅器高岡漆器などもこの頃から始まった。

近代では、1889年4月1日青森県弘前市などの全国30都市と共に市制が施行され、日本初のの1つとして、“高岡市”が誕生する。当時の高岡市は面積2.04 km2、人口29,202人、世帯数7,086戸と、同時に市制施行した全国31市の中で最小規模の市であった[12]。この頃から伏木港(現伏木富山港伏木地区)での交易が盛んになってくる。

現代では2005年11月1日に隣接する福岡町と新設合併し、新しく“高岡市”が発足する。2017年、次年度以降に従前の予算編成を行った場合、40億円以上の財源不足が生じることが判明、公共事業や補助金の廃止、抑制を打ち出すとともに2018年度から5年間を期間とする「財政健全化緊急プログラム」を策定した[13]。その後、財政健全化が一定の成果を上げたことから、2021年度末をもって財政健全化緊急プログラムを1年前倒しで終了した。
古代

5世紀頃 - 桜谷古墳が造成される。


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