高宗_(朝鮮王)
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一方で高宗は、1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒(私の部下の中に犯人が居た)」と述べている[7]
初代大韓帝国皇帝高宗と息子の純宗

大韓国国制」では、第2条で「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」、第3条で「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」、第4条で「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」として王権をさらに拡大した。朝鮮日報は「近代を拒否し、古代へ回帰した」と表現している[5]。皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。また、独立協会を中心とした独立派に対する守旧派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。高宗は光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。

東学の残党も活発な運動を続け、1899年に英学の反乱を起こしている。ドイツ軍服を着用した高宗(1904年)

一方、満州と朝鮮を挟んで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、1904年 - 1905年日露戦争が勃発した。朝鮮日報によると今度はフランス公館へと逃亡しようとした[6]

1905年8月22日に高宗がロシア帝国ニコライ2世に送った親書には、日本に文字を教え、風習も伝えたことを明示したうえで、「2000万の国民が涙を流している。さらにさえ鳴けぬほどに生きられない」「日本が我が国の主権を侵奪しようとする陰謀を企てられないように公使をはやく再び派遣するよう涙で訴える」として、日本が違法侵略をしたと告発している[8]。大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家である一方、日本は1200~1300年代に入ってやっと国家を樹立した。日本のさまざまな風習は朕の国から由来し、文字も朕の国民が教えた。日本人たちは自分たちの先祖のように朕の国を尊敬し、朕の国とあえて敵対的関係を結ぶ考えもできなかった。…日本はあくらつで、ものものしく朕の国の主権を掌握している。現在の韓国がこうも悲しい情況に処した原因は、国家が虚弱で防衛もできず、権利を守ることができなかったためだ。そうだったとしても私たちは数回にわたり独立国家であることを宣言した。今、日本は確かに朕の国に君臨して独立を抹殺させようとしているが、違法である[8]

地政学的な国策から対朝鮮政策を強化したい日本は、戦局が優位に進む中1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂・タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。また日露戦争中に高宗はロシアに事大するための密使を派遣していたが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。

列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣を宥める記述が残っている。

一方、これらの動きの中で高宗は、1907年6月に行われる第2回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、ハーグ密使事件を起こすが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、皇帝退位へと動き、7月20日皇太子李?への譲位に追い込まれ太皇帝となる。
韓国併合日本の大礼服を着用した高宗

1910年(明治43年)8月の韓国併合にともない、太王(王族)の称号を与えられ、「徳寿宮李太王」と称された[2][3]1919年の高宗の葬列

1919年1月21日三・一運動の起きるおよそ1ヶ月前に67歳で薨去した[5]。日本の王公族徳寿宮李太王?として1919年(大正8年)3月3日に国葬が執り行われた。死去に際して日本による毒殺説が流布し、葬儀の日に三・一独立運動が起こるきっかけとなった[2]

御陵は洪陵。なお、日本政府の立場においては、「高宗」の廟号および「皇帝」の名称を含む諡号を公認するものではなかったが、李王家の「私儀」として黙認した。しかし、墓を「洪陵」と命名し、その石碑を建てる動きが起こるに及び、宮内省皇族待遇の李王家の前当主には「天皇陵」と同等の呼称は許されないとして(皇族なら「墓」になる)、「陵」の呼称の差し止めを図った。しかし、洪陵の管理人が独断で建碑したという形で、「大韓高宗太皇帝洪陵」の碑が建った。これは、民族独立の機運が高まる中、事態の紛糾と朝鮮貴族の離反を恐れた朝鮮総督府の黙認のもと、朝鮮貴族らが協力して実現したことであり、総督府の働きかけにより宮内省も妥協することになった[9]
人物

1890年代後半に東洋を旅し、高宗とも面会したイザベラ・バードは、「背が低くて顔色が悪く、平凡な人で、落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、居ずまいやものごしに威厳がないわけではなく、愛想がよく、生来の人のよさがある」「心やさしく温和だが性格が弱く、人の言いなり」「性格的な強さと知性があれば名君になれたかもしれないが意志薄弱なのが致命的」などの感想を抱き、聡明な妻・閔妃の強い影響下にあると述べている[10]


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