高宗_(朝鮮王)
[Wikipedia|▼Menu]

閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。1876年日朝修好条規(江華島条約)が締結される。これをきっかけに、アメリカフランスロシアとも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱の収拾を試みるが、政治の混乱はさらに激しくなった。

1882年、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清へ連れ去られ、清は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この事変により日本公使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された。日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。済物浦条約により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。
事大政策

一方閔妃は、この事件により清に事大していくことになり、開化派の反発を受けるようになる。1884年、開化派金玉均を中心とした勢力は甲申政変を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。

高宗と閔妃は清への事大主義に傾倒していくが、対外政策も国内政策も混乱を極め、国内では東学党を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に1894年甲午農民戦争(東学党の乱)を勃発させる。この混乱を朝鮮王朝は自力で収拾できず、清軍へ援軍を依頼した。清軍が投入されたことで日本は邦人保護のために軍隊を動員し、日清戦争1894年-1895年)の原因を生み出す。朝鮮日報によると高宗は米国公館に避難しようとし、独自の兵力では不可能なために戦時や内乱のたびに外国軍を招いた[4]

この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結することになる。これにより朝鮮は、清の従属国の立場から独立国家として承認されることになるが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとした。

この動きを警戒した日本公使・三浦梧楼や開化派、大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、1895年10月8日、閔妃暗殺事件(乙未事変)が起こっている。金弘集内閣は犯人として李周会・朴銑・尹錫禹の三名を死刑とし、日本国内では三浦らを嫌疑不十分として釈放した。

閔妃暗殺事件に日本軍が関わっていたと報じられると、国内は親日派勢力と抗日勢力が対立し、カウンタークーデターとして春生門事件(1895年11月28日)を起こし、金弘集総理らを殺害し王を奪おうとした。しかし、この計画は親衛隊大隊長の李軫鎬の内通により、失敗に終わった。
親露政策

この後、李範晋はロシア公館に逃げ込み、次のような順番で高宗奪回を試みた。

2月5日、李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。

各地での暴動


2月10日、ロシアは107名の水兵、20名の食料担当兵、大砲一門を
漢城に搬入。ロシア兵150名となる。

宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。


2月11日、高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ。

以下の勅令をだす。
閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵・禹範善・李斗?・李軫鎬・李範来・権?鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ。

新内閣の公示


前総理・金弘集と前農商工部大臣・鄭秉夏は亡命せず、警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却。


2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起、官衙官宅を毀壊。

2月22日 内閣体制の更新。李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始。

この計画は成功し、高宗はロシアと内通してロシア領事館に逃げ込み、反ロシア派は一掃された(露館播遷)。しかし、親露政策は、英国・米国など海洋勢力の警戒心を引き起こした。日本は逆に1902年に日英同盟を締結することで、日露戦争勝利の布石を打った[6]

ロシア領事館の保護下で、高宗は親露政策を取り、様々な契約をロシアと締結した。開化派の金弘集などは殺された。多くの権益がロシアに奪われ、民衆は親露政権に対しても反発の動きを見せたため、高宗は王宮へ戻らざるを得なくなった。こうした自主独立の動きに押され、高宗は1897年10月12日、朝鮮初となる皇帝に即位、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とした。しかし、王権拡大憲法とされる「大韓国国制」を公布して専制君主国家への動きを見せ始める[4][5]

また、乙未事変の再調査を行い、日本人壮士らに閔妃が殺害されたという「王宮事変に関する公報」を政府として公表しようとするが、日本公使小村寿太郎の圧力によって英文雑誌に記事を掲載させるにとどまったとも言われる。一方で高宗は、1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒(私の部下の中に犯人が居た)」と述べている[7]
初代大韓帝国皇帝高宗と息子の純宗

大韓国国制」では、第2条で「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」、第3条で「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」、第4条で「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」として王権をさらに拡大した。朝鮮日報は「近代を拒否し、古代へ回帰した」と表現している[5]。皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef