高向玄理
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大化2年(646年遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ[8]、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳[9]。大化5年(649年)に八省百官を定めた[10]白雉5年(654年遣唐使押使としてに赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[11]
モデルとしたマスコット

河内長野市では、玄理自身を現在の河内長野市高向の出身として、玄理をモデルにしたマスコットのくろまろくんを作っており[12]、河内長野市立ふるさと歴史学習館の愛称「くろまろ館」にも使用されている[13]
脚注^ 「坂上系図」『続群書類従』巻第185所収
^新撰姓氏録』右京諸蕃
^ 太田[1974: 771]
^ 佐伯[1994: 287]
^日本書紀』推古天皇16年9月11日条
^ 『日本書紀』舒明天皇12年10月11日条
^ 『日本書紀』孝徳天皇即位前紀
^ 『日本書紀』大化2年9月条
^ 『日本書紀』大化3年条
^ 『日本書紀』大化5年2月条
^ 『日本書紀』白雉5年2月条
^「河内長野市生涯学習推進マスコット「くろまろくん」をよろしくお願いします」河内長野市ホームページ
^「河内長野市立ふるさと歴史学習館」河内長野市ホームページ

参考文献

佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年

宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

太田亮著、丹羽基二編『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年

関連項目

奥河内くろまろの郷 - 出生地とされる河内長野市高向で、2014年11月29日に開業。開業を機に、高向玄理の生涯と功績を解説する石碑が敷地の一角に建立された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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