高句麗
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398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ[注釈 4]、また誓約を破ってと和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した[39]。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した[39][44]。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという[39][44][43][41]。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した[39]。407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[39]。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある[注釈 5]

また、碑文の記録にはないが前秦の崩壊に乗じて慕容氏が復興した後燕とも戦い、402年には遼東郡を奪って遼河以東の地域に支配権を確立した[47][43]。その後、高句麗人で慕容宝の養子となっていた慕容雲(高雲)が後燕の将軍であった漢人馮跋に擁立されると、広開土王は即座に使者を送り慕容雲を宗族待遇とした[47]。更に同じく慕容氏の政権である南燕にも遣使し、これらを通じて高句麗の西部国境の安定が達成された[47]
平壌遷都と最大版図

広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期を現出したのが長寿王(在位:413年?-491年)である[48][43]。その諡号の通り、79年に亘って在位したと伝えられる[48][43]。彼は即位直後の413年、東晋に初めて朝貢した[48]。この頃、鮮卑拓跋氏北魏が中原を支配下に収めると、北魏に敗れた北燕から天王馮弘が高句麗に亡命した。当初長寿王は馮弘を保護したが、北魏からの強い要求の前に折れ彼を殺害した[48]。長寿王はその後南北に分裂した中国の両朝に遣使を行い、特に国境を接する北魏との関係構築に腐心した[49]。南北両王朝とも高句麗の存在を高く評価し、424年には、435年には北魏からそれぞれ冊封を受けた[50]。高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位級となった[49]

長寿王はまた、朝鮮半島方面の経営と勢力拡大に本格的に乗り出し、427年に南方の拠点であった平壌へ遷都した[51][48]。この時遷都が行われた平壌城は現在の平壌市街ではなく、そこから6キロメートルほど北東にある大城山城一帯にあった[48]。南進路線をはっきりさせた高句麗は、対北魏関係の安定とともに南方への勢力拡大を続けた。この時期の高句麗の朝鮮半島における大きな影響力を示す記録が中原高句麗碑であり、新羅王を召喚して衣服の授与を行い、新羅の人夫を徴発して高句麗軍官の下に組織していたことを伝える[50][注釈 6]。更に455年以降、長期にわたり繰り返し百済を攻撃した[49][53]。百済は北魏に救援要請を行ったが、高句麗の北魏との親善策も功を奏し北魏が介入することはなかった[54]。475年、長寿王は百済の首都漢城を襲ってこれを奪う事に成功した。そして逃走を試みた百済の蓋鹵王も捕らえて殺害し、事実上百済を滅亡させた[55][49][53][56]。その後、文周王が南方の熊津(現・忠清南道公州市)で百済を再興した[57][58]。高句麗軍は更に南下し、現在の忠清南道天安市北部まで進んだ[49]。また東方向に慶尚北道浦項市北部まで勢力を拡大し、遼東、満洲南部、朝鮮半島の大部分を支配するに至った[59]
周辺情勢の変化

広開土王、長寿王、そしてその跡を継いだ文咨明王(在位:492年-519年)の間は高句麗の対外活動が最も盛んな時期であった[53]。その次の安臧王(在位:519年-531年)が内紛により殺害され[60]、弟の安原王(在位:531年-545年)が即位したが、この王が病に倒れると、2年に亘って王位継承を巡る外戚の争いが繰り広げられた[53][59]。その末に8歳の陽原王(在位:545年-559年)が擁立されたが、丸都城主于朱理の乱を始めとして支配層は動揺し王権は弱体化した[53][61]。このような体制の動揺に加え、5世紀末になると再建を果たした百済と朝鮮半島南東部の新羅がそれぞれ国家体制を整えて国力を増し、連合して高句麗に対抗する姿勢を示した[62][61]。6世紀に入ると、朝鮮半島の東海岸を北上する新羅によって高句麗の前線は押し戻されるようになり、551年にはかつて百済から奪った漢城が百済と新羅の連合軍によって占領された[62][61]。最終的にこの都市は新羅が占有した[62][61]

この事態に対応するため、陽原王は552年に現在の平壌市内に当たる地域を新たな王都とすることを決定した[62][61]。遷都後もその名前として平壌城という名が使用されたが、長安城とも呼ばれる[61]。この都市は高句麗の伝統的なスタイルではなく、中国式の条坊制を取る計画都市であった。本格的な工事は次の王である平原王(在位:559年-590年)治世中の566年から始められ、その最終的な完成には43年の歳月を費やすことになる[62][61]。この遷都は勢力を増す新羅の攻撃に対応する体制を整えると共に、朝鮮半島における不退転の決意を示すものであった[62][61]。新羅の拡張を受けて、570年には初めて倭国へ使者を送って対新羅での連携を探った[63][61]

中国においては南北両朝の双方に朝貢を行って友好を保ち[61]、581年に文帝が即位すると、隋からもすぐに冊封を受けた[63][64]


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