高句麗
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この頃、朝鮮半島中央部で新たに馬韓諸国が統合して形成されていた百済[注釈 3]近肖古王によって旧帯方地域が奪われた。故国原王は369年に百済攻撃に乗り出したが敗退し、371年にも大同江を越えて再び百済を攻撃したがこれにも敗れ、逆に平壌を攻撃した百済軍との戦いで流れ矢にあたり戦死した[36][35][33]

国王戦死によって高句麗は混乱し、跡を継いだ小獣林王(在位:371年-384年)と故国壌王(在位:384年-391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進しなければならなかった[37][35]。小獣林王は前燕を滅ぼした前秦との関係強化に努めた[37]。372年に秦王苻堅(在位:357年-385年)から僧順道仏典仏像が贈られ、375年には寺院が建立された[37]。これが高句麗への仏教公伝である[37][35][33][38]。また同じ年には教育機関として太学(大学)が設けられ、具体的な内容は伝わらないものの律令が制定されたという[37][35]。更に故国壌王時代には国社・宗廟、礼制の整備が行われた[35]。こうした積極的な国内政策を通じて国力の回復が図られた[39]
広開土王(好太王)

391年に即位した広開土王(好太王、在位:391年-412年)はいわゆる広開土王碑を残したことで名高い[38]。この碑文は彼の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものであり、4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている[40]。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいる[39]。彼は395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には朝鮮半島中部の百済へ親征してその王都漢城に迫った[39][41]。これによって百済王を臣従させ58城邑の700村を奪取した[39]。398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ[注釈 4]、また誓約を破ってと和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した[39]。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した[39][44]。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという[39][44][43][41]。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した[39]。407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[39]。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある[注釈 5]

また、碑文の記録にはないが前秦の崩壊に乗じて慕容氏が復興した後燕とも戦い、402年には遼東郡を奪って遼河以東の地域に支配権を確立した[47][43]。その後、高句麗人で慕容宝の養子となっていた慕容雲(高雲)が後燕の将軍であった漢人馮跋に擁立されると、広開土王は即座に使者を送り慕容雲を宗族待遇とした[47]。更に同じく慕容氏の政権である南燕にも遣使し、これらを通じて高句麗の西部国境の安定が達成された[47]
平壌遷都と最大版図

広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期を現出したのが長寿王(在位:413年?-491年)である[48][43]。その諡号の通り、79年に亘って在位したと伝えられる[48][43]。彼は即位直後の413年、東晋に初めて朝貢した[48]。この頃、鮮卑拓跋氏北魏が中原を支配下に収めると、北魏に敗れた北燕から天王馮弘が高句麗に亡命した。当初長寿王は馮弘を保護したが、北魏からの強い要求の前に折れ彼を殺害した[48]。長寿王はその後南北に分裂した中国の両朝に遣使を行い、特に国境を接する北魏との関係構築に腐心した[49]。南北両王朝とも高句麗の存在を高く評価し、424年には、435年には北魏からそれぞれ冊封を受けた[50]。高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位級となった[49]

長寿王はまた、朝鮮半島方面の経営と勢力拡大に本格的に乗り出し、427年に南方の拠点であった平壌へ遷都した[51][48]。この時遷都が行われた平壌城は現在の平壌市街ではなく、そこから6キロメートルほど北東にある大城山城一帯にあった[48]。南進路線をはっきりさせた高句麗は、対北魏関係の安定とともに南方への勢力拡大を続けた。この時期の高句麗の朝鮮半島における大きな影響力を示す記録が中原高句麗碑であり、新羅王を召喚して衣服の授与を行い、新羅の人夫を徴発して高句麗軍官の下に組織していたことを伝える[50][注釈 6]。更に455年以降、長期にわたり繰り返し百済を攻撃した[49][53]。百済は北魏に救援要請を行ったが、高句麗の北魏との親善策も功を奏し北魏が介入することはなかった[54]。475年、長寿王は百済の首都漢城を襲ってこれを奪う事に成功した。そして逃走を試みた百済の蓋鹵王も捕らえて殺害し、事実上百済を滅亡させた[55][49][53][56]。その後、文周王が南方の熊津(現・忠清南道公州市)で百済を再興した[57][58]。高句麗軍は更に南下し、現在の忠清南道天安市北部まで進んだ[49]。また東方向に慶尚北道浦項市北部まで勢力を拡大し、遼東、満洲南部、朝鮮半島の大部分を支配するに至った[59]


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