高句麗
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ただし実際にはこの時は倭国は新羅を攻撃することなく、圧力をかけることで「任那の調[注釈 22]」を収めさせることを目指した[255]
日本列島における高句麗人の痕跡

他の朝鮮半島諸国からの移住と同様、日本列島への高句麗人の移住の痕跡は考古学、文献学双方において存在する。

長野県にある日本最大の積石塚古墳群である大室古墳群針塚古墳は、高句麗の墓制との関係を指摘する意見がある[257][258]。また、東京都狛江市狛江古墳群に属す亀塚古墳もその壁画などが高句麗の物に類似することから渡来人との関係が注目された[259]

また、狛、巨麻の古代地名は以下の例のように近畿、関東に分布する。

甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)

武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)

河内国大県郡巨麻郷

河内国若江郡巨麻郷

山城国相楽郡大狛郷、下狛郷

また、倭国に移住した高句麗系の人々の中に画師として活躍した人々の多いことが注目される。『日本書紀』『新撰姓氏録』などに記録される黄書画師と呼ばれる人々は高麗国人久斯那王の後裔とされ、『天寿国?帳』に「画者」の1人として高麗加西溢(こまのかせい)の名が記録されている。また、斉明天皇代には高麗画師子麻呂(狛竪部子麻呂)や、高句麗系の黄書画師と関係が深く、遣唐使に加わって唐に渡ったとも伝えられる黄文本実(黄書造本実)(きぶみのみやつこほんじつ)などの存在も伝わる[260]。彼らは倭国内の仏教寺院の建設や仏画の作成などに大きな役割を果たしていた[261]

668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあった。『日本書紀』の記録によれば685年(天武天皇14年)には大唐人、百済人、高句麗人あわせて147人に爵位を授け、翌686年には高句麗・百済・新羅の男女および僧尼62人が献上されたという記録がある[262]。高句麗から渡って来た遺民たちは駿河甲斐相模上総下総常陸下野など、関東一円に居住させられたが、716年には1799人が武蔵国に遷され高麗郡が置かれた[263]。高麗郡大領となる高麗若光は666年に来倭した記録がある玄武若光と同一人物と見られ、703年には高句麗の王族に連なることを意味する高麗王(こきし)の姓が贈られている[264]。彼は実際に高句麗王族だとも推測もされるが、明確な出自は不詳である。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する[265][264]。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。

狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)

狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)

狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)

狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)

大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)

大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

こうした高句麗遺民の子孫と見られる人々の中には、その後対渤海外交にその足跡を残している者もいる[263]
王権と王系「朝鮮の君主一覧#高句麗」も参照
王系譜

高句麗の王統・王系について記述した現存最古の文献史料は広開土王碑文である[266]。広開土王碑文の冒頭では北扶余出身で天帝河伯の娘の子である始祖鄒牟(東明聖王、朱蒙)、その子である儒留(瑠璃明王)、大朱留(大武神王、大解朱留王)と言う建国初期の3王について触れられ、広開土王(好太王)は「十七世孫」であると記述されている[266]。このことから、広開土王時代には高句麗は既に整理された王系伝承を持っていたと考えられる[266]。一方『三国史記』「高句麗本紀」では初期の3王は東明聖王、琉璃明王、大武神王であり、それぞれに広開土王碑文と対応する異名が付されていることから、『三国史記』所伝の王統譜は広開土王碑文の伝える伝承と密接な関係にあったことがわかる[266]。一方で広開土王を「十七世孫」とする伝承については、『三国史記』の記述とどのように整合させるかを巡って長く研究が続けられている[267][注釈 23]

初代王の鄒牟(朱蒙)について伝える記録には『広開土王碑文』『魏書』『三国史記』がある[268]。これらの記録は細部は異なるものの、夫余(扶余)の地から逃れた高句麗の始祖鄒牟(朱蒙)が大河を渡って南の地に高句麗を建国するという大筋は一致する[268]。この神話は高句麗と夫余の同族性の根拠ともされるが、現代の学者は基本的に後代の創作であるとし、史実としては扱わない[269]。また、東明王の名は『論衡』や『三国志』「夫余伝」引用の『魏略』には夫余の建国者として登場する。この東明(聖)王と朱蒙の説話は元来別々の神話であったが、後に高句麗の夫余征服との関わりから(ある程度は政策的に)同一視されるようになったものであるという説が現在有力な見解の1つとなっている[注釈 24]

武田幸男は『三国史記』記載の高句麗の王系をその諡号や葬地の分類から以下の通りに分類している。
伝説王系:初代東明聖王(朱蒙)から第5代慕本王まで。『広開土王碑文』『魏書』『三国遺事』などにそれぞれ独自の系譜が伝わる。

大王王系:第6代太祖大王から第8代新大王まで。大王号を持ち、中国史書に由来する諱を持つ(大祖大王:宮、次大王:遂成、新大王:伯固)。また新大王以外の葬地が伝わらない。

丸都・国内王系:第9代故国川王から第19代広開土王まで。初期の王に中国史書との整合を取る過程で誤って追加された王を含む可能性があるが、全体として史実性が認められる。

平壌王系:第20代長寿王から第28代宝蔵王(宝臧王)まで。全て実在の王からなる。

このうち建国神話に伴って造作された伝説王系の王たちについては『三国史記』の他、『三国遺事』「王暦」や『魏書』「高句麗伝」に記載があり、最初の3代については既に述べた通り広開土王碑文にも対応する王が伝えられている[270]。しかし伝説王系の5王の親子・兄弟関係についてはそれぞれが独自の系譜を伝えており、その世代関係の伝承は後代に至るまで安定しなかったと見られる[270]

大王王系に分類される太祖大王、次大王、新大王については古くからその記録の信頼性を疑われている[271]。武田幸男はこの3王の系譜について、『三国史記』の原資料となった『海東古記』が編纂される際、高句麗の古記録と中国史書に登場する王との対応をとることができず、両者の形式的整合が試みられた結果生み出されたものであるとする[272]

丸都・国内王系以降の王については原則的に実在していた人物の記録によると推定できるが、大王王系との結節点の王である故国川王山上王については、『三国史記』にそれぞれ矛盾する系譜が伝えられている[272]。このため、故国川王の実在性が長く議論の対象となっている[273]池内宏はこの王を架空の王と見、三品彰英は実在するとした[273]

武田幸男によれば、まず『三国志』の記録を意識して高句麗の古記録の王系譜が作成され、次いでその王系譜を『後漢書』の記録と対照しつつ『海東古記』の系譜が作成された[272]。更にそれぞれの記録が『三国史記』に原史料として使用された[272]。そして、故国川王および太祖大王(国祖王)は相互に矛盾する記録の整合性を取る試みの中で、いずれかの時点で加上された王であると考えられる[274][注釈 25]
王姓

初代朱蒙から5代目の慕本王までの5王は尊称として「解」(ha)が付されており、この語は「高」と共に高句麗の王家の姓として知られている[275]


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