広開土王碑文は高句麗に対抗するために百済が倭と「和通」したことを伝える[39]。これに対応する記録として『三国史記』や『日本書紀』に百済が王子を質として倭国へ出し好を結んだという記述があり、百済が倭国との提携によって高句麗に対抗しようとしたことは概ね史実と見て良い[243][244]。広開土王碑文の字面通りには百済・新羅を臣民とした倭国は高句麗の主要な敵であり、その戦いは最終的に高句麗の勝利によって終わったとなるが、碑文中の倭国と百済・新羅の関係、外交上の倭国の主導権などについては激しい議論が重ねられている[注釈 21][244]。
倭国は5世紀の間、朝鮮半島への勢力拡大を志向しており、いわゆる倭の五王は中国の王朝に対して高句麗領域外の朝鮮半島南部の軍事権を持つ役職の除正を繰り返し求めている[245]。そして特に倭王武が漢城陥落の後に宋へ出した上表文に象徴されるように、倭は高句麗への対抗意識を鮮明にしており[246]、中国王朝に倭が求めた官爵や、この頃から使用されるようになった倭の「大王」号は高句麗を意識したものであるとも考えられる[246][247][248]。
上記のように一般に初期の高句麗と倭の関係は敵対していたことを示す各種の証拠が見られるが、一方で413年に高句麗の使者が倭人を伴って東晋に入朝したという記録がある[48]。しかし、この時高句麗の使者に同行した倭人の性質についてはよくわかっていない。高句麗と倭の共同入朝などの説もあるが、戦いで捕虜とした倭人を随行したなどと解し、あくまで高句麗の外交の文脈で理解する見解が一般的である[48][249]。
その後、若干の空白期間を開けて570年の高句麗から倭への遣使の記録が現れる。『日本書紀』は応神天皇23年条などにこれ以前の高句麗との交渉についての記述を残してはいるものの、この570年の高句麗からの遣使が高句麗と倭国の確実な外交関係形成の最初の物であるという点で多くの論者が一致している[250][251][252]。この高句麗の倭への接近は、当時の新羅の勢力拡大を背景にしたものであると見られる。当時高句麗は北進する新羅に次々と南部の領土を制圧されており、551年にはかつて百済から奪った漢城も失っていた[251]。更に中国の南北両朝とも新羅が積極的に関係を持ち始め、新羅は高句麗にとって軍事上の脅威となっていた[251]。このためいわゆる任那の滅亡によって朝鮮半島への足掛かりを失っていた倭国との連携によって新羅の背後を掣肘しようとしたものと考えられる[251]。実際にはこの時の交渉は相互の不信感や前例がない状況でのトラブルが相次ぎ[252]、特に実を結ぶことなく終わったが[253]、589年に隋が中国を統一すると、南方の新羅と戦いつつ隋の脅威にも対処するという二正面の対応を迫られた高句麗にとって倭は戦略上重要な存在となり、590年代にはより積極的な外交関係の構築が模索された[253]。595年には倭国に高句麗の僧慧慈が渡った[253]。『日本書紀』は聖徳太子が慧慈に仏教を学んだことを記し、20年に渡り滞在した後に帰国した後も音信を保っていたという[253]。慧慈の他、播磨国で蘇我馬子に見出されたという高句麗僧恵文の名が伝えられ、また倭国から高句麗へ行善が留学僧として渡った[254]。
李成市は、当時の東アジア外交では仏僧は大きな役割を果たしており、高句麗側の記録が残らないため推測の域は出ないものの、ほぼ同時期に突厥に送られていた高句麗使(このことは隋の煬帝に高句麗遠征を決意させる要因の1つとなった)と同様に、対隋体制の構築を目指した高句麗の姿勢が慧慈を巡る日本側の記録に反映されたものであるとしている[253]。実際に601年には倭国から高句麗に大伴連囓が派遣されており、高句麗と倭国が新羅攻撃での連携を図ったことが記録に残されている[255]。ただし実際にはこの時は倭国は新羅を攻撃することなく、圧力をかけることで「任那の調[注釈 22]」を収めさせることを目指した[255]。 他の朝鮮半島諸国からの移住と同様、日本列島への高句麗人の移住の痕跡は考古学、文献学双方において存在する。 長野県にある日本最大の積石塚古墳群である大室古墳群や針塚古墳は、高句麗の墓制との関係を指摘する意見がある[257][258]。また、東京都狛江市の狛江古墳群に属す亀塚古墳もその壁画などが高句麗の物に類似することから渡来人との関係が注目された[259]。 また、狛、巨麻の古代地名は以下の例のように近畿、関東に分布する。 また、倭国に移住した高句麗系の人々の中に画師として活躍した人々の多いことが注目される。『日本書紀』『新撰姓氏録』などに記録される黄書画師と呼ばれる人々は高麗国人久斯那王の後裔とされ、『天寿国?帳』に「画者」の1人として高麗加西溢
日本列島における高句麗人の痕跡
甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)
武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)
河内国大県郡巨麻郷
河内国若江郡巨麻郷
山城国相楽郡大狛郷、下狛郷
668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあった。『日本書紀』の記録によれば685年(天武天皇14年)には大唐人、百済人、高句麗人あわせて147人に爵位を授け、翌686年には高句麗・百済・新羅の男女および僧尼62人が献上されたという記録がある[262]。高句麗から渡って来た遺民たちは駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野など、関東一円に居住させられたが、716年には1799人が武蔵国に遷され高麗郡が置かれた[263]。高麗郡大領となる高麗若光は666年に来倭した記録がある玄武若光と同一人物と見られ、703年には高句麗の王族に連なることを意味する高麗王(こきし)の姓が贈られている[264]。彼は実際に高句麗王族だとも推測もされるが、明確な出自は不詳である。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する[265][264]。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)
こうした高句麗遺民の子孫と見られる人々の中には、その後対渤海外交にその足跡を残している者もいる[263]。 高句麗の王統・王系について記述した現存最古の文献史料は広開土王碑文である[266]。
王権と王系「朝鮮の君主一覧#高句麗」も参照
王系譜