高句麗
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?族は古くから高句麗と密接な関係を持ち、『三国史記』によれば高句麗の領導下で対百済の戦いに参加していたという[219][注釈 19]。高句麗では「城」の下に複数の「村」(定住村落)が所属するという城村支配が広く行われていたが、百済による韓・?支配は同様の支配体系を既に持っており、高句麗は旧来からの?族支配を背景に、百済の支配体制を包括する形で新たな領土を支配したと考えられる[221]。続く長寿王時代には更なる南進が企図され、高句麗は475年に百済の首都漢城を陥落させて一時的に滅亡させることに成功した[55][49][53][56]

6世紀に入ると、復興した百済は新羅や倭国との間で伽耶地方を争奪しつつ次第に国力を強めた[222]。548年に高句麗と百済の戦いは再燃し、高句麗は6,000人の?兵をもって百済を攻撃した[223]。以降、百済は新羅と連携して高句麗に対処し、551年には百済・新羅の連合軍によって漢城を占領されるに至る[223][62][61]。その後、新羅の強大化がはっきりし始めると、高句麗と百済は対立しつつも対新羅戦においては連携するという複雑な外交が展開された。

6世紀末から7世紀にかけての隋・唐による高句麗遠征が度重なる失敗に終わった後、唐は高句麗の背後を掣肘するために先に百済を滅ぼす策を取り、660年に百済は滅亡して高句麗は南北から挟まれることになった[92][93]。その後百済遺臣たちが起こした百済復興運動を倭国が支援したことは『日本書紀』に詳しいが、高句麗も百済の残党を支援していたことを唐側の史料から読み取ることができる。唐が建立した『大唐平百済国碑銘』には「東伐親鄰,近違明詔,北連逆豎,遠応梟声。」という記載があるが、これは滅亡前の百済が詔に従わず北の逆豎(高句麗)と連合し、遠くの梟(倭)に応じて東の親鄰(新羅)を伐ったことを責める文章である[224]。また、『旧唐書』「百済伝」には鬼室福信や王子扶余豊らが高句麗・倭と連合して反乱したと記されている[225]。結局百済復興運動は鎮圧され失敗に終わったが、鎮圧後に扶余豊や複数の百済遺臣が高句麗へと逃げ込んでいることも、高句麗が百済復興運動を支援していたことを証明するものであろう[225]
新羅

百済と同じく、新羅もまた4世紀半ばに国際舞台に登場する。新羅の勃興にも高句麗は大きな影響を与えたと考えられている[226]。4世紀後半から5世紀前半の高句麗と新羅の関係の基本史料となるのも広開土王碑文であり、碑文は百済と同じように新羅が古くより高句麗に朝貢しその属民であったと記す[227]。『三国史記』には新羅王奈勿尼師今(在位:356年-402年)37年(392年)に高句麗の使者が新羅を訪れ、新羅はその強盛を見て王族の実聖を人質に送ったという記事が存在するが[228][229]、これより以前の、碑文に書かれた新羅の高句麗に対する臣属については、高句麗の認識していた漠然とした過去を語ったものとして史実とすることに否定的な評価が長く採用されている[228]。このことは同一の条文にある百済の高句麗への臣従の情報に大きな誇張が含まれていると見られることや、倭が百済・新羅を臣民としたという記述の史実性の評価とも関連する[228]

その後、倭軍によって王城を攻撃された新羅が399年に高句麗に救援を求めたことが同碑文に見え、高句麗の広開土王はこれを受けて翌年、新羅に駐留していた倭軍を放逐し、「任那加羅」まで追ったという[230]。『広開土王碑文』の倭軍放逐後の高句麗と新羅の関係を記した箇所は摩滅によって判読不能の箇所が多く確実ではないが、概ね「古くより新羅が朝貢しなかったことはないが、高句麗の救援を喜んだ新羅はこの時より王自らが朝貢を行った」という記述があるということで学者の見解は一致している[231]。以降の高句麗に対する新羅の臣属は概ね間違いなく、特に中原高句麗碑と呼ばれる高句麗が建設した碑文にその具体的な姿が描かれている[232]。この碑文は421年頃、または481年頃の建設と見られるもので、高句麗の「大王」と新羅の「寐錦(王)」が兄弟の関係にあったと記す[233][232]。そして前者が兄、後者が弟であり明確に高句麗を上位者とした国際関係を記録している[233][232]。さらに、高句麗は新羅の寐錦に衣服を下賜し、新羅領内に駐留する「新羅土内幡主」が軍夫として人を募っていたという[234][232]。これらは5世紀の高句麗に対する新羅の臣従が相当程度実質的なものであったことを示す[233][235]。また衣服の授与は新羅の官制について高句麗からの影響があったことを示唆する[233]

新羅は徐々に国力を増し、高句麗支配からの脱却を目指した。『三国史記』によれば450年に新羅人が高句麗の辺将を殺害した[236]。この時高句麗は新羅討伐を計画したが、新羅側が謝罪したため出兵は中止されたという[236]。しかしこの頃には新羅の高句麗からの離脱傾向は明らかになり始め、454年には高句麗が新羅領北部に侵攻、翌455年には高句麗と百済との戦いで新羅が百済に援軍を派兵したことが『三国史記』に残されている[236]。同時期の高句麗と新羅の争いは『日本書紀』にも記録されており、475年の百済の一時滅亡の際にも新羅は百済への援軍を提供している[237]

6世紀に入ると新羅は伽耶への勢力拡張を図ると共に「王」号の使用、官位制の整備などを行い、飛躍的な国力の増強を遂げた[238]。551年には小白山脈を越えて北上して高句麗の10郡を奪取し、552年には百済と共に占領した漢城を自領とし553年にはその地に新州を置いた[239]。その後、6世紀後半には新羅は中国南国両王朝との間に独力での外交を展開した[63]。こうした新羅の強大化と北進は高句麗に大きな脅威を与え、高句麗は半世紀近い歳月をかけて現在の平壌市街にあたる場所に本格的な都城(長安城)の整備を行った[62]

中国で隋・唐が統一を達成すると、その脅威に晒された高句麗は百済と結んで新羅に圧力を加えるようになった。642年には百済の攻撃を受けて窮地に陥った新羅は王族の金春秋を高句麗に派遣して救援を求めたが、高句麗の実権を握っていた淵蓋蘇文はこれを拒絶し逆に百済と共に新羅を攻撃しようとした[81]。その後、唐に支援を求めた新羅は、実際に唐軍が朝鮮半島に出兵すると、唐軍と共に百済、次いで高句麗を攻撃し、百済と高句麗は相次いで滅亡した[240]。そして唐軍が直接朝鮮半島を支配しようとすると、新羅は今度はそれを排除すべく高句麗の亡命政権を一時保護するなどし、最終的に唐軍を朝鮮半島から撤退させて朝鮮半島中部以南の支配を確実なものとした[240]
日本(倭国)

高句麗と倭国との関係を示す記録が登場し始めるのは4世紀後半からである。高句麗が残した広開土王碑文は4世紀末から5世紀初頭にかけての倭の動向を記録する数少ない資料であり、それによれば朝鮮半島を南下する高句麗と百済・新羅へ勢力を拡張する倭との間で大きな戦いがあり、最終的に広開土王が倭を駆逐することに成功したという[39][241]。この碑文の倭関係記事の史実性を巡っては長く論争が続いているが[注釈 20]、高句麗の南下とそれに対する百済の対抗と言う政治情勢の中で倭国は朝鮮半島の外交舞台に登場し始める。

広開土王碑文は高句麗に対抗するために百済が倭と「和通」したことを伝える[39]。これに対応する記録として『三国史記』や『日本書紀』に百済が王子を質として倭国へ出し好を結んだという記述があり、百済が倭国との提携によって高句麗に対抗しようとしたことは概ね史実と見て良い[243][244]。広開土王碑文の字面通りには百済・新羅を臣民とした倭国は高句麗の主要な敵であり、その戦いは最終的に高句麗の勝利によって終わったとなるが、碑文中の倭国と百済・新羅の関係、外交上の倭国の主導権などについては激しい議論が重ねられている[注釈 21][244]

倭国は5世紀の間、朝鮮半島への勢力拡大を志向しており、いわゆる倭の五王は中国の王朝に対して高句麗領域外の朝鮮半島南部の軍事権を持つ役職の除正を繰り返し求めている[245]


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