高句麗
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

冬寿の墓ではもはや実質を失っていた東晋の年号と生前の官位が記されているのに対し、某鎮の墓には高句麗の年号が用いられるとともに高句麗の官位が銘記されており、高句麗王権の政治体系に服する姿勢が明瞭に表れている[203][注釈 18]

この流入漢人たちが具体的にどのように高句麗国家の建設に関与したのかを読み取れるような史料はほとんど存在しない[204]。しかし、『三国史記』「百済本記」には以下のような記述がある。

自馮氏數終,餘燼奔竄,醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱?,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國
馮氏の命数がつき、その残党が高句麗に逃げ込んでいらい、醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。
?『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳[206]

李成市はこの記述において馮氏(北燕)の滅亡後に高句麗に逃れた残党が高句麗の強大化に大きな役割を果たしたことがあることから、「華北の争乱を背景に東奔した人士が、高句麗の地において果たした役割が決して小さいものでなかったことを、ここからいささかなりとも読み取ることができるのではないかと思う」(李成市)と述べる[204]。また、実際に中国史書には5世紀以降、外交・軍事に中国姓の者の活躍がみられ、高句麗は中国系人士を外交交渉や軍事活動に登用していたと推測もできる[204]

5世紀の長寿王代には西方国境の安定が模索された[207]。この方針の下、華北を統一した北魏への朝貢や東晋を始めとした南朝への入朝を通じてそれぞれとの関係が安定したことで、朝鮮半島への拡大策に大きく舵を切る事が可能となり、475年には百済の首都漢城を落城させて朝鮮半島の中央部以北をその支配下に収めるに至った[208]。ここに至る一連の戦争において、百済は南朝やそれまで通交を持ったことが無かった北魏へ救援要請を行っているが、北魏は高句麗の忠節(高麗の藩を称する)を挙げてこれを拒否した[208]。南朝もまた同様の論理でこれを拒否したとも考えられ、この経過は高句麗の外交的勝利でもあった[208]。この南北両朝との通交と西方国境での安定策は、基本的には7世紀まで200年にわたって高句麗の基本的な対中外交方針となった[207]

6世紀後半にが中国を統一すると、このような外交的条件は根本的に変化した[65]。隋と国境を接する高句麗は、海上で隋と接する百済に続き590年には隋への遣使を行った[67][65]。以降、東アジアでは隋を中心とした一元的な国際秩序が形成されていく[64][67]。しかしこれは南北両朝の存在を前提に北朝の脅威に対応してきた高句麗にとっては深刻な事態であった[67]。この変化は実際には高句麗と対立する靺鞨粟末靺鞨)や高句麗の領内に居住する契丹人が隋と結びついて高句麗王権から離反する動きとして現れ[64]、これらを鎮圧しようとする高句麗の行動と関連して隋による高句麗遠征が行われ[64][67][69]、最初の遠征が失敗した後も、高句麗と突厥の結びつきに脅威を覚えた隋の煬帝は遠征を繰り返した[70][64][71][69]

而高麗小醜、迷昏不恭、崇聚勃碣之間、薦食遼・之境。雖復漢・魏誅戳、?窟暫傾、亂離多阻、種落還集。萃川藪於往代、播實繁以迄今、眷彼華壤、剪為夷類。(中略)移告之嚴、未嘗面受、朝覲之禮、莫肯躬親。誘納亡叛、不知紀極、充斥邊垂、亟勞烽候。關柝以之不靜、生人為之廢業。(中略)省俗觀風、爰屈幽朔、吊人問罪、無俟再駕。於是親總六師、用申九伐、拯厥?危、協從天意、殄茲逋穢、克嗣先謨。
しかし高麗は醜悪で、愚かにも恭順せずに勃・碣の地に屯し、遼・?の境界を侵している。漢と魏は誅伐を繰り返し、彼奴らの巣窟は暫くの間危うきに傾き、離散して多く阻隔状態となったが、各部族がまた集まり出している。かつてのもとに悪人が集まったように、増えて今に至っている。かの中華であった地を望めば、そこは剪かれて蛮夷の地となっている。(中略)隋の布告を受ける際厳粛であるべきなのに、未だ面と向かって受け取らず、臣下としての朝貢を、決して自ら進んですることはない。亡命の叛徒を誘い入れるのに際限なく、辺境に蔓延り、屡々故郷に警報の烽火を揚げさせる。辺塞はこれにより休まらず、そこに住む民はこのために生業を放棄するしかない。(中略)その国の風俗を見て、ここに北方に至り、民をみまい高麗の罪を問おうとするも、再度の出征を必要とする方法はとるまい。ここに至って朕自ら六軍を統べ、九つの罰を数え上げ、その危難を救い、天の意に従い、ここに匪賊を滅し、先帝の大計を継ごうではないか。?『隋書』帝紀第四 煬帝下/8年春 大兼健寛訳[209]

隋による度重なる高句麗遠征は最終的に失敗に終わり、隋滅亡の重要な要因の1つになったと考えられている[73][76][77]。しかし、隋が滅亡したあと成立した唐もまた継続的に高句麗遠征を繰り返し、百済を先に滅ぼし新羅の戦力も加えた唐によって668年に高句麗は滅ぼされることとなった。
百済

百済は朝鮮半島中西部の馬韓諸国が統合されて成立した国である。この統合の時期は概ね4世紀半ばと見られるが、馬韓の統合には高句麗の存在が大きく影響したと考えられ、百済は高句麗との交戦の中で国際舞台に登場し始める[210]。百済は高句麗と同じく夫余から出たという同族神話を持っているが、この様な神話は政治性を強く帯びていることが推測されることもあり、単純に史実であるとは認め難い[210][211]現在のソウル市にある石村洞3号墳。高句麗の影響を受けたと見られる積石塚。

建国期の百済において高句麗からの影響を示すものとして注目されるのは現在のソウル市に残されている高句麗式の積石塚の存在である[212][213]。4世紀後半の石村洞3号墳をはじめとするソウル市の積石塚は、内部に粘土を充填するなど百済独自と見られる要素もあるが、石積みや墳丘からが出土する点など、全体として高句麗の墓制の影響を受けて造営されたものと見做すのが一般的である[212][213]。夫余の墳墓に積石塚が見られないことから考えて、これは高句麗と百済が同じく夫余から出たことを示すというよりは、高句麗系の人々が百済の支配地へ流入した可能性を表しているとも考えられる[214]。夫余族を媒介にした高句麗と百済の同源神話はむしろ、後発の百済が高句麗との対立の中で、同族であることを標榜することで立場を強化しようとして流布したものであろう[214]

4世紀末から5世紀初頭にかけて、広開土王の下で高句麗は百済を支配下に置くべく繰り返し戦った。この間の事情は『広開土王碑文』に詳しい。それによれば、百済は古より高句麗に朝貢する「属民」であったが、391年に倭が百済を「臣民」としたため、高句麗は396年に百済を破り、これを「奴客」とした[39][49]。そして高句麗は百済から58の城邑の700村を奪うとともに、百済王に忠誠を誓わせて王子らを人質とした[39]。百済はなおも倭国と「和通」して高句麗に対抗しようとしたが、400年に高句麗は新羅へ進軍して新羅王都を占領していた倭軍を撃破し、朝鮮半島南部の任那加羅にまで進撃したという[39]。高句麗は404年の帯方地方への倭軍の攻撃も退け、407年には再び50,000の大軍をもって百済を攻撃し、7城を奪った[39]

この『広開土王碑文』の「奴客」という表現や、古の昔から百済が高句麗の「属民」であったという記録は、高句麗が認識していたあるべき過去に基づいて増幅された誇張であるという指摘がある[215]。上記の碑文の記述を信ずるならば、「古より高句麗の属民であった百済」は391年に倭によって高句麗から離脱し、396年に再び高句麗の「奴客」となったものの、翌397年には再び高句麗から離れ、その後数度に渡り領土を削られつつも、広開土王の治世中には最終的に高句麗の勢力圏外にありつづけたことになるためである[215]。同碑文はこれを反映してか、百済に対する明確な敵意を表現しており、その国名を百残という蔑称で表記している[216]

『広開土王碑文』は高句麗が百済から奪った領土・領民の支配についての情報も現代に提供している。碑文において百済から奪った領土の住民は「新来の韓と穢(?)」(新来韓穢)と呼ばれており、その地から広開土王墓の守墓人を徴発したという[217]。新来韓穢の地名は実に36に及ぶが、その地名中に登場する韓、穢字の登場や文章の分析から、高句麗が略取した百済領では韓族が多数を占め、一部の地域で韓・?の混住状態があった事が見て取れる[218]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:399 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef